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建築の思想の原点
建築を作る時に考えていること。
建築にはアイデアがある、アイデアの原点は何か?
設計事務所であることはただのデザイナーではありません。
それはデザインだけを学んできた結果が表現されているわけではないという事です。
建築には、構造が必要です。
構造は生命財産を守るための責任があります。
建築には、機能があります。
そして時には設備も必要です。
それは建築が建築であるために必要な生命維持装置であるということです。
建築には、社会性があります。
個人のものであっても地域社会に露出し、主張することがあります。
その影響を受ける人も出てきます。
いい影響であればいいですが、悪い影響も時にはあるがやはりそうあってはなりません。
建築には、歴史も必要でです。
歴史は時には根拠になります。
歴史的な根拠があれば社会性へとつながります。
社会性を無視した建築になってしまった場合はどうなるか、地域から歓迎されることはありません。
それを良しとする風潮もありですが、人間は本来社会的活動を行う事で人格を形成していると考えるとどうでしょうか。
建築には、感情に働きかける仕掛けがあります。
感情が揺さぶられないものは意味をなさないわけではありません。
ただ人は感情の生き物です。
感情に働きかける仕組みがあるという事は愛着につながります。
つまり建築のアイデアの原点には『人』がいるということ。
そして『場所』が掛け合わされてアイデアにつながります。
しかしそれだけでは根拠がありません。
『場所』の歴史を知ることがその一つです。
その上で建築家の過去の体験や思想が混ざり合い方向性を決定します。
最後は『感情』です。
感情にどう訴えかけられるか、地域に歓迎されるか。
地域にあっているのか、地域に合っていなくともなんとなく受け入れられるデザインである事は実はそれが原風景であったからかもしれません。

# by kotanimasafumi | 2021-11-22 14:02 | つぶやき | Comments(0)
働き方と組織のあり方
働くには組織があり、そこには働く場(コミュニティー)があります。
これまで企業であれば営業職であろうと箱の中に『オフィス』という組織がありそこを拠点として移動を行なってきました。
『印鑑』という組織の中心でもある重要な動かせないものが『オフィス』に戻る‘装置‘でした。
それが『印鑑』を押すことで何かが成立する重要なコミュニケーションの場でした。
『印鑑』を押さなければ物事が終了しない…。
請求書、出勤簿、確認書、契約書、あらゆるものが『印鑑』によって支配されてきました。
その結果として『オフィス』に集約されていたような気がします。
オンライン化の時代ではその『印鑑』という文化はなくなりつつあります。
不思議なものです。
何十年も誰も贖うことができなかったこのハードルがいとも簡単に終焉を迎えました。
『ファックス』もまた不思議な存在でした。
最近、国の書類としてファックスは禁止するということもありましたが、
そもそもメールが出た数十年前時点でまだファックスが存在意義を感じていること自体がユニークな文化だと感じます。
そして、昨今のコワーキングという文化は本当に根付くかどうか?
リモートワーク文化は進むのであろうか?
成熟された文化は時に正しいとは限らない…。
そこには一般常識と言われる集団意識も側面としてあると思います。
多くの人は利便性の良い方向へ流れるものです。
わざわざ険しい道のりを好んで進む人はそう多くないであると思います。
また、一度常識になったものを変えるのは労力がいるからです。
その意味では地球規模の変化により、
変わらざるおえなかった仕事、
チャンスとばかり変えた仕事、
変えようにも変えられなかった仕事、
変える必要はなかった仕事、
様々なビジネスの変化がありました。
変化を仕掛けた仕事や企業がありました。
一部の企業ではオフィスは不要になりました。
不要になり売却や賃貸の解約をすれば固定費は要らなくなるが、今ある事務所をどう活用していくか?
また、社員の教育はどのように図っていくか?
オフィスには社会的活動の場でもあり、社会人としての人格形成を担う場でした。
その考え方自体が変化していくでしょう。
コワーキングスペースに求められる価値はそこにあると思います。

# by kotanimasafumi | 2021-11-10 14:04 | つぶやき | Comments(0)
なぜキャンプに行くの?と問われ、人生には遊びが必要だと気づいた話
なぜキャンプに行くの?と問われ、人生には遊びが必要だと気づいた話_e0149941_11565138.jpg
なぜ、あなたはキャンプにいくの?
そう聞かれて、改めて考えました。
生きていることを感じるために、
と答えました。
普段の生活では生きていることを感じれていないのでしょうか。
キャンプではなぜ生きていることを感じるのでしょうか。
生きていることを感じるってどういうことでしょうか。
生きるってなんでしょうか。
その質問をいただいてから自問自答が続きました。
自分はキャンプに何を求めているのか。
自然に触れること、おひさまの光を浴びること、鳥や海、山、雨の声を聞くこと。
自分で身体を動かし、寝床や食べものを作ること。
テントを張らなければ屋根のあるところでは寝れない、火を起こしてご飯を作らなければ温かいご飯は食べれない、食器も自分で洗わなければならない、トイレは遠い、、、そんな不自由な状況が生きていることを感じることなのか。
普段の生活では、とことん便利さ、効率化を追求しています。
ほぼほぼ在宅勤務しています。
ご飯作りは電子レンジを駆使してパパッとやっています。
洗濯も食器洗いも機械にお任せしています。
お風呂もボタン一つで溜まります。ルンバが掃除してくれます。
便利な家電やサービスとの共同生活により、自分の手間を省き、他のことに使う時間を捻出して暮らしています。

では、捻出されたその時間で何をしているのでしょうか。
仕事、子どもと遊ぶ、余暇などです。
自分の場合、一日15、6時間の半分、起きている半分の時間は仕事をしています。あと半分は家事や子どもと戯れたり、お風呂など生活の時間です。
生きるって なんでしょうか。
キャンプで感じることができて、普段の生活では感じていないものは、なんでしょうか。
普段の生活では、皿洗いやご飯作りが仕事のように感じます。しかし、キャンプではそれ自体が楽しみなのです。
キャンプでは、キャンプ飯をうまく作り、みんなで美味しく食べることを目的に取り組みます。
火を起こし、竈門を作り、火加減を調整する。
それは実験であり、うまくできるかどうかわからない中でのチャレンジです。
ご飯を食べた後は、美味しかった〜、うまくいった〜の余韻に浸りながら食器を洗います。外で食器を洗う、これも実験の続きだから楽しいのかもしれません。
そう考えると、キャンプは全てが実験です。
日常生活を離れたところで「生きる」実験。
毎日便利な家電に囲まれて暮らしているけれど、それがなくても自分たちで生きれるってことを確かめたい実験?
キャンプでは、やっぱ自分たちで作って食べると美味しいね〜って言葉が出てきます。
もちろん炭火で焼いたトウモロコシやイカは格別、飯ごうで炊いたご飯もたまらなく旨い、なぜでしょうか。
"自分のご飯を自分で調理して食べる"
その行動がサブではなく、メインの目的になっているからなのでしょうか。
少なくとも自分の日常生活では、ご飯を作って食べることがメインの目的にはなっていません。
共働き、子どもは小学校や保育園に行く。
一日の空腹を埋めるための手段として、もしくは食事の目的を意識もせずにこなしている感じです。
普段の生活は、メインに「仕事や子育て」があり、それを週5で無事継続すること目的として、一日の生活を組み立てていることがわかりました。
明日も仕事と小学校・保育園で朝が早いから、早く寝るよ〜。から逆算して、自分の生活が作られています。
仕事が終われば急いで夕飯の支度、後片付け、子供の習い事の自主練習、お風呂、歯磨き、ほんの束の間のひとタイム。
よし、そろそろ寝るよ〜明日も仕事と小学校・保育園だからね、を繰り返しているのが自分の普段の生活です。
キャンプでは、もちろん休日なので、仕事も小学校や保育園もなく、時間の使い方が違います。
普段の生活は、やはり、何よりもまず、
無事に仕事と小学校や保育園に遅れないように、
生活を送ること、それが生きることの大目的になっています。
自分の仕事に付随して、子どもの小学校や保育園も必須目的となっています。
その連続した緊張感から解放され、料理自体を、食事自体を、片付けさえも楽しめる時間、空間がキャンプなのです。
自分の普段の生活には今MUSTが多いです。
起きている時間でMUSTが占める割合が多くなると苦しくなるようです。
仕事はMUSTです。明日以降の打ち合わせ予定がギッシリ詰まっており、自分が休むことで他の人に迷惑かけれないとの緊張感があります。
家事もMUSTです。家族を起こして、支度して、ご飯を作って、、やらないと一日が始まらないし、終わりません。
以前、ある人からの言葉を思い出しました。
子どものことを「しなければならないこと」って思ってやってるのはもったいないね。
本来は楽しいことじゃない?
そのの言葉は心にグサっと刺さりました。
保育園送迎を巡り妻と喧嘩。
よく考えると、保育園に自ら希望し入園したわけでもない子どもにすれば、送り迎えはそんなに嫌なの?って感じるだろう。
いってきます!って元気に園に入っていく姿を見送り、ただいま!のお迎えの笑顔を想像しただけで、幸せな時間なのに。
保育園送り迎えって幸せな時間なんだよな。自分と子どもにとって、今しかない大切な時間。
家族笑顔で楽しく生きるってWILLがあるなら、送り迎えはそこに繋がるMUSTであり、WILL そのものなんだ。
人生のWILL、CAN、MUSTの設定が狂うと苦しい状況になる。
Will⇒やりたいこと
Can⇒できること
Must⇒やるべきこと
「Will Can Must」とは、リクルート社が人材育成のために開発したフレームワークです。
リクルートの従業員は、半期に一度、Will Can Mustシートを用いて自分のキャリアを見直す時間を持ちます。
Will(本人が実現したいこと)・Can(今後生かしたい自分の強みや克服したい課題)・Must(能力開発につながるミッション)について上司とすり合わせることで、
高いモチベーションで仕事にあたることができるといいます。
引用:https://www.kaonavi.jp/dictionary/will-can-must/
保育園の送り迎えを押し付け合っている時、自分だって、私だって仕事がある…の会話になる。
頭の中で、WILL(家族で楽しく生きる)を実現するためにやるべきMUST(仕事)が、WILL(やりたいこと)にすり替わっている。
逆でした。
【WILL】家族笑顔で楽しく生きたい。
【CAN】自分に出来ることは、美味しくご飯を作る、遊ぶ、イベント計画、収入源となる仕事をする。
では、【MUST】は何か?
WILLを実現するために、自分にしか出来ないこと、自分がやると家族が笑顔になることをやること。
家族の笑顔が自分の笑顔の元になり、自分の笑顔が家族の笑顔に繋がる。
今はそれを最優先【MUST】に生きていく。
【MUST】の割合が多くなりすぎると人生がくるしくなる。
人生には遊びが必要だ。
【MUST】が多くなると、遊びの時間が、遊びの余力がなくなります。
遊びとは、失敗の許される実験。
遊びとは、成果に直結しない時間。
遊びとは、生産性を問われないもの。
遊びとは、他人に評価されないもの。
遊びとは、自らが満たされるもの。
遊びのない【MUST】に占められた一日の繰り返し。それは自分にとって地獄。。
【MUST】を絞り、遊びをもちながら、【CAN】を磨き、【WILL】を実現していきたい。
日常の作業一つ一つを「遊び」として楽しめる時間、それがキャンプなのです。
だから自分は、キャンプに行くのです。
自分に、良き問いをくれた友人に心から感謝します。

# by kotanimasafumi | 2021-10-14 11:57 | いろいろ | Comments(0)
ことば
"建築家はメンドクサイことを言う職業だと思っている"
"ヤッカイでコムズカシイことを言っているイメージだ"
これは個人的な意見であって良い悪いの話ではありません。
ある時ある人と連絡を取り合っているときの話です。
世の中の建築家の中には、なるべく難しい言葉を使わずに建築の打ち合わせをするように心掛けているなんて話をよく聞きます。
建築はかなり専門性が強く一般の方では分かりにくいことや専門用語も多いですし、
それを噛み砕いた言葉に置き換えて説明するのは親切であり分かりやすくて良いことだと思います。
でも、自分はこういった専門用語や難しい言い回し、
素人では気づかないような細かいデザインや工夫をコムズカシイ言葉を使いながら話すようにしています。
とは言え全く伝わらないのでは意味がないので後から説明はするようにしていますが、
基本的には業界用語もバンバン使います。
と言うのも、クライアントはそういった『ことば』に興味があるから建築家に依頼をしたのではないかと思う節があるからです。
例えばキャンプに興味のある人が、
キャンプ道具を買いに行って店員さんが専門用語を使いながら説明してくれるとなんだかプロっぽくなれる気がするかもしれないとか…
サッカー中継の解説でもけっこう専門用語が使われていたりだとか…
サッカーをやっていないので不明な点もしばしば、素人では分からない『ことば』が多用されていたりします。

文豪の小説や芥川賞などを受賞する作家さんの著書などは難しい『ことば』やわざとと思う言い回しがあったり、
最近は三島由紀夫の『金閣寺』を読み直しているが、
やはり難しい『ことば』が多く読みにくいが、それゆえ印象にも残る美しい『ことば』があります。
決して専門用語を使ってお客さんを煙に巻くわけではありません。
クライアントは高い専門性を期待しているのであれば、それに応える『ことば』使いをしても良いと思うのです。
そこには自分なりの狙いもあって、クライアントにもこっちの世界の人になってもらいたいと期待を込めて
こっちの世界の『ことば』をクライアントと共有できるようになると、
クライアントがグッと建築や自らのプロジェクトに関心を抱いてくれるようになります。
更にはもっと知りたい
もっと拘りたいという気持ちが湧いてくるように思います。
少なくとも自分は建築に興味があって自身のつくる建築にプライドを持って欲しいので敢えてこのような話し方をしています。
『ことば』は悪いがクライアントを育てるくらいの気持ちがあってもよいのではないだろうか…
そうでないとクライアントの希望をただ形にするだけの御用聞きになってしまう気がするのです。
御用聞きを求めるクライアントもいますが、自分はそうはなりたくはありません。
そうならないためのマウントを取っているのかもしれません。
会話でも文章でもであるが、その中に『苦味』が欲しいと思ってしまいます。
コーヒー通は、豆の苦味にこだわる
ビールは苦味がやみつきになる
『ことば』にも『苦味』がないと自分は物足りないように感じてしまうのです。

# by kotanimasafumi | 2021-09-29 13:46 | つぶやき | Comments(0)
「いかにかっこいいイプレゼンを作れるか」
「いかにかっこいいイプレゼンを作れるか」_e0149941_15123943.jpg
あらゆる業界にテクノロジーが浸透してきています。
もちろん建築設計業界も例外ではありません。
今や、CG(コンピュータフラフィックス)のクオリティーは凄まじく、本物の写真と見分けがつかないほど。
現代において、仕事を獲得できるかどうかはプレゼンのクオリティーにかかっているといっても差し支えません。
「カッコイイCGが一発決まれば、仕事が入ってくる」という時代です。
そんな風潮がうつってしまったのか、いつの間にか当然のように、悪い意味で建主もそれを望んでいます…。
建築設計実務がそうであるから、建築専門学校や大学の建築学科も、「いかにかっこいいイプレゼンを作れるか」に教育の重きを置く傾向が強くなっている気がします。
学生の課題を見ながら感じたこと。
設計課題の成績は、建築それ自体の優劣ではなく「いかに、雑誌に載っているような、かっこいいイイプレゼンをつくれるか」に重きが置かれているように感じました。
しかも、そういう学生を企業も積極的に採用するからなおさら始末が悪い…。
そのことをとやかくいうつもりはないですが、
実際の実務がそうなのだから、学生にもその教育を施すのは当たり前だという主張もわかります。
しかし、どうも実際の建築設計も、建築教育も焦点がずれているような気がしてならないのです。
というのも「建築は見るものではなく、体感するものである」と自分は考えているからです。
かっこいいCGは全て「視覚」に訴えるためのもの。
しかし、建築は目で見るだけのものではありません。
視覚はもちろん大切です。
しかし建築とは、空間に響く音を聞いて、流れる空気を感じて、匂いを嗅いで、というように「五感全て」で感じるものです。
視覚だけに訴えるCGで判断された建築は、出来上がると確かに見た目はカッコいいんです。
しかし、カッコいいだけで、それ以上なにかを生み出すことはありません…。
それに、見た目だで薄っぺらく奥行きがないから、すぐに飽きてしまうことがほとんどです。
それと比較して、五感に訴える名作建築達は、何度見ても飽きることはありません。
それどころか何度訪れても新しい発見があります。
この違いは時間を経ると恐ろしいくらいに露呈します。
街を歩けば、都市を埋め尽くす視覚に訴えようとした建築達が、抜け殻のように並んでいて残念で仕方が有りません。
テクノロジーが進化すればするほど、ものごとを視覚だけで判断する機会が多くなります。
新型コロナウィルスにより、その速度は増しているように感じています。
建築行脚の旅に出る学生も少なくなっているようです…。
しかし、どれだけテクノロジーが隆盛を極めようと、視覚偏重社会になろうと、建築の本質は変わりません。
変わるわけがないです…。
「建築は五感で感じるもの」という事実を、実務を行う者はもちろん、建築教育にしっかりと根付かせていかなくてはならないと思います。

# by kotanimasafumi | 2021-09-09 15:10 | つぶやき | Comments(0)