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人間は遺伝子レベルで朝型と夜型があるといいます。 とはいえ、色んなビジネス書を読んでいると朝が1番頭がスッキリしているため、 大変な仕事は午前中にした方がいいという記述が多い。 ・ しかし、建築業界は完全に夜型のスケジュールです。 建設現場自体は朝8時から夕方6時なんてことが多いですが、 デスクワーク系の建築業界は違います。 事務所や会社によりますが、 10時~11時くらいに出社します。 そして、終電ギリギリまで仕事をしています。 酷いところだと朝帰りというところもあるとか、、、。 働き方改革やリモートワークの導入によって多少改善されてきてはいるもののまだまだ働きにくいように感じます。 ・ 自分の父も17:30くらいには家に帰ってきていました。 それが普通だと思っていましたが、 それなのに建築業界ときたら、、、。 ・ 残業手当なんて概念が存在しているのかは知りませんが、 終業時間というものにルーズすぎます。 この前は「9時半から打ち合わせね」なんて言葉が聞こえてきて震えました。 もちろん朝ではなく、 夜の9時。 個人的には朝早く出社して午前中に頭の使う仕事をして、 午後にちょろっと作業的な仕事を済ませ、 日が落ちる前に帰るのが理想です。 朝日が昇るのを見ながら帰るなんてやってられません。 ・ 建築業界の闇は学生まで侵食しています。 課題提出前に徹夜なんて当たり前です。 確かに製図室に籠って友人と共に喋りながら夜明けを迎えるのはある種の青春かもしれない。 そのうち思い出として美化されます。 ・ 不眠症で苦しむ友人が何人かいます。 寂しくてとか、 特に何も無いけど眠れない夜があると語る人となれば世の中の大半を占めるのかもしれません。 しかし、自分は眠れないとなったことがありません。 目覚めもよく、目覚めと同時に歌いながら踊りだせるくらいには健康です。 ここまで来ると逆に睡眠障害なのではと思ってしまうほどですが。 ・ そもそも夜遅くまで残業しないと終わらない仕事なんて仕事形態として崩壊しています。 自分が求める理想に対して建築業界はあまりにも乖離し過ぎています。 そんなことを思いながら建築を眺めています。 ・
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by kotanimasafumi
| 2022-06-20 16:31
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・ ある人が言いました。 哲学とは、考え方を考えることである。 また別のある人が言いました。 建築とは、つくりかたをつくることである。 ・ 自分はこの考えに共感しています。 ・ 建築設計 1年目、この言葉に出会う前は建築 (ケンチク) がほぼ建物 (タテモノ) を意味する言葉として使われていることに違和感を持ちつつも、 明確に言い表わせずにいました。 建築: architecture が即ち建物: building ではなく、 もっと幅広く、 思想を含むものと認識していましたが腹落ちする言葉が見当たらなかったのです。 ・ 例えば IT業界では software architecture や system architecture などがあります。 本来の architecture の概念は明らかに建物: building 以外に及ぶものです。 ・ architect (建築家) は何かを構築する際に、 いかにしてつくるのかを考えます。 建物にかぎらず、ビジョンを具現化するために、つくりかたをつくるのが architect (建築家) のミッションであると信じています。 ・ そもそも建築という概念、言葉自体が明治までの日本に存在しませんでした。 明治になって西欧の architecture を学ぶうえで考え出された言葉が建築 (ケンチク) です。 訳語の候補には、本質である原点を捉える設計思想術ということから原術というものがあったそうです。 本来の architecture の概念を表すには原術の方がより素直だったと思います。 ・ 世間一般には一級建築士の仕事は、 建築: architecture をつくっているのだと思われているのではないでしょうか。 一級建築士は建築設計の業界にいると当たり前の資格なので 「取らないと気になるが取っても喰えない」 ことの例えとして 「足の裏の米粒」 なんて言われます。 ・ 一級建築士は建築家: architect の資格ではなく、 あくまでも建物: building の法的確認を行うためのライセンスです。 なぜなら、一級建築士であることで設計技能が優れているかを測ることはできません。 十分な実務経験がなくても試験を受けることができますし、 試験内容においても要求性能に対するディティールを考えるようなことは皆無ですし、 建築: architecture に対する考えを問われることもありません。 ・ 試験内容からあらわになる一級建築士のミッションは、 建物: building を適法状態で設計: design することに他なりません。 一級建築士は自動車の運転免許証と同じようなもので技能の高さが保証されるものではありません。 問題が生じた際には法的責任を負わせることを目的として、 法に照らす上で "最低限" の設計知識を有することの担保として設けられたライセンスです。 だからこそ一級建築士に求められるのは高い倫理観です。 適法性は都市の整備全体にも関わりますし、 建物の安全は人命に関わりますから、基準を満足していることを確認しながら設計することは社会に求められる重要な資格です。 ・ ただし、なぜ建物: building が求められるのか、 そもそも建てるべきなのか、 建てるならばどうあるべきか、 そのためにはどうするべきかといった物事の原点にある本質を見つめ、 設計思想を明確にし、計画における法そのものをつくり、 理想を実現することが本来のミッションである architect (建築家) とは異質の存在です。 一級建築士は法に照らすわけですが、 建築家は計画における "法そのもの" をつくります。 だから一級建築士であることは建築家: architect の必要条件ですらないと考えています。 ・ 建築設計の業界にいると、 建築: architecture と設計: design の違いを意識せず、 まず設計ありきでモノゴトが進むように感じることがありますが、 設計: design はあくまでも、理想を具現化するために数値決めや仕様決めを行うものであって、 建築: architecture: 設計思想によって理想や価値を定義してから行うべきです。 ・ 建築家: architect が問題と真摯に向き合い課題化し、 何が良いのかを定め解決策を見いだし、 人々を巻き込むビジョンを描くことで、 理想を具現化するための設計: design に進むのです。 設計者: designer は図面や仕様書を作成しますが、 建築家: architect はビジョンを描くことでディレクションし、 理想に近づくためにマネジメントします。 ・ 建築家: architect であるために必要不可欠なのは、 建築: architecture をどう捉えているのかの考えである建築哲学です。 向き合う対象が何で、何が良いとされるのかの判断軸がなければ、いい建築: architecture などつくりようがありません。 言わずもがな建築に限ったことではなく、 何が良いのかを知らなければ、良いものなんてつくりようがないです。 建築を捉える上で、 光の取り入れ方や移ろいこそが重要だと考える建築家にとっては、 芸術: art 的側面が建築には強く求められると思いますが、 全ての建築がそれを軸にしているわけではありません。 やはり、建築とは 「つくりかたをつくる」 ことだという一点から揺らぐことはないと思います。 ・ この端的な言葉自体にそのものズバリを体現していますし、 物質的な洗練は精神的な豊かさだと本当にそう思います。 ・
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by kotanimasafumi
| 2022-06-03 16:23
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吉村順三氏の建築は、実物の迫力が凄まじい…。 その理由は、吉村が建築をゲンスンで考えているから。 ・ ゲンスンとは「原寸」です。 「実際の大きさ」、「1分の1の縮尺」ということ。 ・ 吉村氏の建築は、膨大な原寸図の上に成り立っています。 原寸図を描くと、モノにリアルに向き合うことになります。 ・ モノにリアルに向き合い、練りに練られた原寸図によって出来上がる実物の迫力はものすごい。 ・ ・ 今の時代、原寸大の図面を描く人は本当に少ない。 ・ 住宅などの小さな建物だと、まだ描いている人はいるかもしれませんが、 大きな建物になると、よほどこだわりのある設計事務所以外は、原寸図を描くことは皆無になります。 ・ 建築家の千葉学氏が日本設計の社員時代に巨大なプロジェクトで 「最初から最後まで1/200以上のスケールの図面を見たことがなかった」 と雑誌インタビューに答えていたのを読んだことがあります。 ・ 現代は、それだけ「実物」への執着が希薄になっていると思います。 遠く離れたところからしかモノを見ていません。 鳥の目で空から眺めているだけのような感覚です…。 ・ 吉村氏は、その危険性を誰よりも理解していた建築家であるように思います。 鳥の目と同時に虫の目も持ち合わせていると感じています。 ・ とにかく「実物」に徹底的にこだわった。 ・ そのこだわりがよくわかる吉村のシンプルな言葉があります。 「建築の勉強というのは、実物を見なければダメだと思うのですよ。人間の生活に本当に必要なものをつくるわけですからね」 吉村氏のこだわりが最もよくあらわれるのは窓まわり。 図面を見ると建具の厚みから木目の方向、ガラスの厚み、建具レールの形にいたるまであらゆる情報が描き込まれています。 原寸図を描くと、いやでも「リアルなモノ」と向き合わざるを得なくなります。 ・ 「建具はもっと厚い方がドッシリとしていいのではないか。しかし、あまり厚すぎると重くなって開閉がしづらくなるな。」 「ガラスはこんなに薄かったら、風圧で割れてしまうのではないか。」 「ああこれでは横殴りの雨だと室内に入ってしまうな。」 などなど、ゲンスンはとてもメンドくさいし、ごまかしが一切効きません。 しかし、それを乗り越えた先に「迫力のある実物」があらわれる気がしています。 ・ 最近キャンプが流行っているようだが、これからはあえてメンドくさいことをみんなやりたがる時代になるような気がしています。 ・ そんな時代が来たら「ゲンスン」の復権。 ・
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by kotanimasafumi
| 2022-05-12 16:58
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学生時代に受講した授業についての話。 ・ 学生時代に建築意匠論という授業がありました。 プログラム・場所・イメージという概念を基に建築のデザインに対して有名な建築家の作品事例を交えて 個々の作品に対しての解説を与えつつデザインの理論について掘り下げていくという趣旨の授業でした。 ・ 自分はあまり優秀な学生ではなかったので近代建築史の授業への理解はもちろん建築意匠論の授業への理解もあまり深く出来なかったですが。 また当時の自分は建築の学術的な授業よりも実際に手を動かしてデザインを形にしていくようなものづくりとしての建築に興味がありました。 ただ授業を受講して近代建築史という背景を基に 有名な建築家の作品事例に対して建築意匠や建築史における位置づけや事例研究により導き出された理論に関する話を聞いていて 難解でしたが内容はとても深く感じられ大学の教授による大学の授業らしい学術的な講義に感じていました。 ・ 大学は技術者を育成する教育機関としての色が強く 自分自身も大学卒業後は紆余曲折で波乱ありましたが、 設計者として経歴を重ね学術的な授業により得た考え方も現在は大切だと感じています。 ・
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by kotanimasafumi
| 2022-04-22 16:38
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・ 絵や写真はどのような経験をもたらすのか。 ・ -- ”絵とか、とりわけ彫刻とか、いわんや建築は、実際に見るよりも写真で見たほうが理解しやすい。” -- ヴァルター・ベンヤミン: 図説写真小史 / 久保哲司 訳 / 筑摩書房 / p.45 / 1998 ・・ 過去から現在にいたるまで、 建築は図面・スケッチ・写真・CGなど様々な表現が用いられて情報として拡散されてきました。 建築に関する専門的情報は、 建築を生業とする人や建築学生が主に求めるものとなりがちですが、 近年では芸術やファッション誌のような一般の人々から求めやすい雑誌に建築情報が載ることもあり、 人々は建築に対する距離を縮めていると思います。 ・ 情報を伝達するメディとしては、 古くはウィトル・ウィウスの建築十書のような建築理論書があり、 近代では雑誌がその役割を果たしてきました。 『レスプリ・ヌーヴォー』や『デ・ステイル』もその一つです。 現在は雑誌をはじめ、テレビ番組やwebメディア、Youtubeなどの動画配信サービス、さらにはTwitterやInstagramのような我々に身近な媒体から、 建築の情報を得ることが可能になっています。 ・ そして、それは誰でも情報を発信することが可能になっています。 ・ -- 建築と違って、美術品、絵商や彫刻は比較的移動可能なものだと思います。 とくに近代以降のものは、待っていればいつか作品は展覧会の巡回とともに自分のいる場所にやって来るかもしれませんが、 建築は基本的には向こうから歩いてはやって来ません。 こちらが足を選んで、その場に行かないと体験できません。 その場所に縛りつけられている、という指命が建築にはあるわけです。 そういう意味では、建築の情報を伝達する場合、図面を本のかたちににまとめて流通させることが昔から行われていました。 -- 五十嵐太郎・鈴木理策・ヨコミゾマコト・竹内万里子: 『国立国際美術館35周年記念シンポジウム写真の誘惑──視線の行方 記録集』/ セッション3「写真と建築」/ 国立国際美術館 / p.102~103 / 2012.12.25 ・・ 五十嵐氏が指摘する通り、建築は不動であり、その場所を訪れなければ、建築を「体験」することはできません。 それゆえ、実体験できる建築はごく限られています。 ・ しかし、我々はメディアから建築情報(図面や写真)を得ることで、建築を類推することで、あたかも「経験」したような状態となります。 また、上記の摘のように、近年のメディアの強化やソーシャルネットワークサービス(以下SNS)により、 多くの情報を得ることができるようになっており、発信された情報を通し、 我々が理解することも容易になってきているとも考えられます。 ・ ・ 建築情報があらゆるメディアで掲載されており、 自身が「体験」しなくとも情報によって「経験」したような状態になるのが日常と化した現在、 五感を伴って「体験」した建築体験と、情報上で「経験」する建築経験の間に差異が生じていると考えられます。 ・ -- 「A:実際の身体の経験による空間の理解」と「B:情報を介した空間の理解」に間に乖離が生じるのは、 情報発信者が「C:他者に伝達するために解釈を施して出力した情報」の内容が、 「実際の身体の経験による空間の理解」の内容と異なることが起因しているという関係が成立していると言える。 -- 永瀬 智基: "建築メディアにみる空間の情報伝達に内在する作法" / 名古屋市立大学学術機関リポジトリ / https://nagoya.repo.nii.ac.jp/ 2015 / 2022.04.04 アクセス ・・ つまり、「体験」としての建築体験に、情報による「経験」としての建築経験は、 根本の部分である情報によって差異が生まれているという指摘です。 ・ ・ 写真は、実に建築と相性が良い情報媒体です。 繰り返しになりますが、建築は不動のものであるため、 初期の写真にとって建築はよい被写体でした。 (初期のカメラは、長時間の露光が必要でしたが…。) ・ 19世紀ごろから、定期刊行物としての建築雑誌が発行されるようになり、 初期は図面ベースでしたが、徐々に建築写真が入ってくるようになっていきます。 日本における最も歴史のある『建築雑誌』は、 1号では図面しか登場しません。 その後、現在と近い形に写真をレイアウトしたものが出てきます。 ・ 建築雑誌が数多く存在するのも、建築のジャンルにおける写真の存在意義や重要な媒体であることをよく示しているということでしょうか。 このように、近代から現在にかけて、建築情報の発達に欠かせなかったのが、 写真であり写真の発明から今日までずっと、写真と建築の関係は切っても切り離せないものとなっています。 ・ では、写真は建築の何を映しているのでしょうか。 ・ 建築を写真にとるとき、カメラは建築空間を映します。 そして、写真として現像した際、空間は二次元、つまり平面となり、 我々の目の前に現れます。 写真は空間を切り取り、二次元として現れた際、果たしてそれは空間と呼ぶことができるのだろうか。 ・ -- 当初、ドイツ語の著述にしか見られなかった用語である「空間」は、 ジーグフリート・ギーディオンが『空間・時間・建築』を1940年に出版したことをもって、英語圏にも広く用法が普及する。 その間、「空間」にまつわる言説は次々と追加され、意味内容は発展を続け、 ついに「空間」は20世紀の建築にまつわる最重要概念の地位を獲得することとなる。 ・・・(中略)・・・ 「空間」が、20世紀建築の欠かせざる要素として認識されるに至ったのは、「空間」が本質的に、事物の属性を表わさない概念であることによる。 -- 門脇耕三: "反-空間としてのエレメント" 10+1website / https://www.10plus1.jp/ 2015.02 / 2022.03.28 アクセス ・・ ジークフリート・ギーディオンによる空間の発明以後、建築写真は空間をどのように撮影するかに焦点があてられてきました。 しかし、空間とは概念であり、物質的に存在しないものです。 ・ -- 建築空間を物質的に説明可能にするために、写真家の鈴木理策は次のように述べています。 ・ 空間を撮るとき、被写界深度を深くするというのが一般的です。 被写界深度とは、写真のピントが合っているように見える奥行きのことで、 それが深いと、手前のものも奥のものも焦点が合っているように見える、つまりパンフォーカスの状態になります。 こうして撮ると、すみずみまで見渡せる写真、見るべき場所が非常に多い写真を作れるんですね -- 五十嵐太郎・鈴木理策・ヨコミゾマコト・竹内万里子: 『国立国際美術館35周年記念シンポジウム 写真の誘惑──視線の行方 記録集』/ セッション3「写真と建築」/ 国立国際美術館 / p.125 / 2012.12.25 ・・ 建築空間を写真でおさめるためには、そのための被写体深度を深くし、奥行を生むことで、多くの物質を一枚の写真に写すことが必要であるようです。 この物質が多く写りこんだ状態から、春口は以下のように空間を説明しています。 ・ -- 実際には目に見えない空間を説明するためには、さまざまなものを視界にとらえ、 かつそれらの関係性や視覚的要素を詩的に解釈し説明する必要があったのだ。空間はつねに詩的である。 -- 春口滉平: "〈論考〉インスタ映えする建築写真論──空間、ロラン・バルト、表面 " 山をおりる / https://yamawooriru.tumblr.com/post/174567807457/text3 2018.07.27 / 2022.03.20 アクセス ・・ このように空間は、多くの物事の関係で成り立っており、空間内に散在する多くのエレメントの関係性から空間を説明できます。 写真によって空間を切り取る行為に多くの試行錯誤があり、 様々な物質を映しこむことで建築空間はメディアによって伝達されてきたのです。 ・ ・ -- カメラという装置は、見えているものを記録するだけではなく、 見えてはいても見たことを認識していない世界を私たちに教えてくれています。 ・・・(中略)・・・ 私たちが確実に体験したにもかかわらず、その体験を認識することができなかったものを捕えているのが写真だとしているのです。 私たちの中には意識的な記憶として残ることはありませんが、一方で記憶の中に、無意識のうちに強烈に残っています。 -- 松村由佳・森村泰昌・米田知子: 『国立国際美術館35周年記念シンポジウム 写真の誘惑──視線の行方 記録集』/ セッション1「写真と記憶」/ 国立国際美術館 / p.17~18 / 2012.12.25 ・・ カメラは風景を切り取りとり、写真として平面に落とし込むことができる装置であり、 意図しない風景が写真として現れることもあります。 実空間に五感を伴って「体験」している一方で、 実空間の中で「体験」しきることができなかった部分が写真として現れ、 写真によって「経験」することができるのかもしれません。 ・ 建築に置き換えると、実空間を五感を伴って「体験」する中で、 「体験」仕切れなかった部分を、写真によって「経験」として補完する構図を描くことができます。 ・ 多くのエレメントの関係性によって空間が記述可能であるとすれば、 建築写真内の空間の解釈を行いさえすれば、建築「経験」は豊かな経験として成り立つのでは。 ・ -- ”絵とか、とりわけ彫刻とか、いわんや建築は、実際に見るよりも写真で見たほうが理解しやすい。” -- ヴァルター・ベンヤミン: 図説写真小史 / 久保哲司 訳 / 筑摩書房 / p.45 / 1998 ・・ ベンヤミン自身が何をもって建築が写真で見たほうが理解しやすいかを述べてはおらず、不確かですが。 一方で、実空間で五感を伴った建築「体験」によって得た知見は、 写真によって写された建築空間を、周囲のエレメントにより解釈することで生まれる建築「経験」と同等の効果を得ることができるのかもしれません。 一度綿密に解釈することで、一枚の写真から類推する建築は非常に豊かなものとなります。 ・ ・ 建築は不動であるため 現地を訪れなければ「体験」することができず、 それ以外はメディアを通じて「経験」するしかありませんでした。 ・ そのなかで、建築の情報伝達に欠かせない存在であったのが写真であり 写真と建築は切っても切り離すことのできない関係となり、 建築写真という一つのジャンルを築き上げることとなりました。 ・ カメラが建築空間を撮影することが、建築写真の一つの主題となり、 空間をどのように撮影するかが問題でした。 そこで、一つの方法として三次元の空間を写真として二次元に落とし込んだ際の写りこんだ物質の連関で空間を解釈することができ、 それによって建築空間は写真上でも再現可能になったのです。 ・ 三次元、または時間を伴う四次元での建築「体験」と 二次元平面上である写真による建築「経験」。 これらはどちらが優れているわけではないですが、 実体験としてえる知見と写真に解釈を重ねることで得る知見 両方とも豊かな建築「体験」「経験」を与えてくれることが考えられます。 ・ ・
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by kotanimasafumi
| 2022-04-12 16:07
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