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カテゴリ:つぶやき( 122 )
売れる言葉と、ひびく言葉
心が見えない人の言葉は響かない。

心は物質じゃないからもともと見えないんだけど、それでも見えたように感じる言葉を綴れる人はいる。
それができないと、売るための言葉で売上や数字でマウント取り続けて注目を集め続けないといけないから、消耗すればとって代わられる。

プロの物書きであるはずのそういう人はあまり心に響かないものが結構ある。

むしろ素人たる主婦の人のnoteの方がグッと来たりする。

この違いは何なんだろうか?


先日、Youtubeでお菓子の動画を見て、買うお菓子を選んでいる少年が「TVCMの芸能人は演技できちゃうから、本当においしいのかわからない。だから参考にしない。」と言っていた話を聞いた。

広告の世界がプロの演技で虚構を演出しているのがバレてしまい、プロの演技より素人の本音の方が信用されるようになりつつあるんだろう。


文章もその波が来ている気がする。

売れるための技術としての言葉と、心を動かすはだかの言葉は別物なのかもしれない。両方使える人もいれば、片方しか使えない人もいるという事だろう。もちろん、両方使えるプロもいる。


信頼の図式

本音を出せるプロ > 素人の本音 > プロの演技


人間が生まれる瞬間はもちろん裸一貫だ。

言葉だって同じで、最初は本心どころか単語すら言えない。「あー」とか「うー」などの喃語と呼ばれる稚拙な表現の確認から始まる。

幼児は表現の引き出しが少ない分、言いたいことをうまく言えなくて突然キレたりする。

文章を売って暮らす人々はそこからたくさん練習をして、たくさん失敗もして、外に見せる商品としての文章を作れるようになるんだろう。

そうしていつしか売れる言葉を綴ることに慣れすぎてしまい、心を動かすような素のはだかの言葉を出す筋肉が衰えちゃっているのかもしれない。


言葉は物質ではない概念だから、言葉が見えることはない。こうして見えている文字も、共通のルールを知っている同士だけしか通じない一種の暗号だ。

でも、その暗号にも何か気持ちが形になったかのような感覚を受ける時がある。

あなたは言葉に温度を感じたことはないだろうか?

あったかい、つめたい、ぬるい、寒い、熱い・・・ヒリヒリするような焦燥感には火傷にも似た熱さを、ゾッとするような恐ろしさには氷にも似たゾクッとする冷たさを感じる。

温度感だけじゃない。売上や数字でみずからの欲望を丸出しにして煽る姿には、まるでその人のグロテスクな欲望を露出されたような気持ちになる。

言うなれば、欲望の露出狂だ。


こうした売上マウンティングなどは、一種の煽り文句であることが多い。要するに自分はこれだけ売れているのだから、あなたも私をフォローしてありがたく言うことを聞けば売れるかもよ?というヤツだ。

実際は養分として財布の中身を吸い取られるだけのことが多く、本当に為になることはあまり書かれていない。いかに気分良く射幸心を煽ってお金を巻き上げるかのゲームな訳で、パチンコなどのギャンブルの仕組みと似ている。

別にこれらもビジネスだろうし否定はしない。

ただ、自分はもうそういうグロテスクな欲望をモザイクなしで見せられるのはちょっとしんどい。

逆に、こうしたビジネス演技ではなく、建前抜きの本音や本心に触れるとハッとする。そこに嘘がないことに安心もする。

聞きかじった知識じゃなくて実際に試してきたものを失敗談も含めて聞かせて欲しい。


数値には出てこない心の動きや揺らぎがきっとあるはず。

たった1人にでも言葉が届いて心を揺らせたなら、それだけで1万ビューより良い結果なんじゃないかと自分は思う。



by kotanimasafumi | 2019-06-22 10:48 | つぶやき | Comments(0)
美しい涙について

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大江健三郎、新しい人よ眼ざめよ


を読んでいて考えた事を少し…
文中にブレイクという名の詩人が出てくる。

恥ずかしながらブレイクという名を初めは固有名詞として受け取らなかったが、『無垢の歌』の「失われた少年」の引用句に心惹かれた。

《夜は暗く 父親はそこに居なかった 子供は露に濡れて ぬかるみは深く 子供は激しく泣いた そして露は流れた》。

原文にはこう書かれている…
  

  The night was dark, no father was there,
  The child was wet with dew;
  The mire was deep, and the child did weep,
  And away the vapour flew


英語の語の定義では、涙を流す、と、(水など)が流れるを区別している。
日本語では受け身の流れる、能動態の流すである。
ここから英語と日本語の差が伺える。
英語にとって物理現象はflowであり、人為的行為はweepとなる。
日本語に両者の間に区別はない。


ここに美しい日本語が現れている気がする。

ふと思い出すのは、有名な言葉に、
美しい花がある(実在する)。花の美しさというものはない(実在しない)。
と実在論を平易な言葉で考察した批評家がいることだ。

日本人の涙はいつから枯れてしまったのだろう。
そもそも日本人ではなくなってしまったのだろうか。
自分の中のDNAはいつ眼ざめるのたろう。
DNAは日本という土地柄が作り出すような気がしているけど…
夢を見て朝に流す涙はいつだって素直で綺麗だったかもしれない。


美しい女性について

建築分野の中でガラスはよく考察対象となる。
自分自身の、要するに、男性から観た女性の内面の持論だけど、
女性にとってガラスというものは、メタファーとして、
とても重要な役割を持っているように思う。
ショーウィンドウ越しにキラキラした憧れの世界を夢見るgirl.
女性が憧れの世界をイメージすると、女性と憧れの世界の間にはいつだってガラスが存在するかのように感じられる。

見えるが手の届かない世界、自分とその世界にいる人たちとの区別や差を感じているように感じた。

その区別は、社会人になってお姉さんと呼ばれる年齢になっても別のカタチで続いていると私は感じる。

ショーウィンドウ越しの世界の代わりに隣の人の世界にガラスを貼る。
近くの人や遠くの人、それぞれガラスを貼っている。良いか悪いかはよく分からない。

でも、素敵なladyはいつでもガラスの彼方と此方を比べて、此方を良くしようとしているように、少ない個人的経験から考察できる。


自分はそんな素敵なladyには誠実でありたいなぁと思う。
自分の世界を大切に想う気持ちは、何か生命力のような、言葉にするとチープだけど、
素敵な何かがあるような気になってくる。
その世界を、自分で守る、のではなく、その世界に出入りする人で築き上げる事が、
とてもより良い結果になるなぁと主観的観測が答えをだしている。

こんな感じに自分なりに答えを出している女性と出逢うと
関係はなんでもなくとも、お互いに愛し愛される応え合いが出来て
とても愉しい。


愉快だ。


自分らは、きっと、これからは結果として生き残る必要が出て来る年齢に差し掛かっているんだなぁ。

全ての人が幸せになれる道はない。

きっと女性の幸せは日常の中に見つけられるけど、それは、ガラスのショーウィンドウの手前にあって、向こうの世界の実現を望まなくなるような気もする。
なれる幸せと見つけられる幸せの区別。


こんな事を読んだ本と出逢った人から気付かされた。



by kotanimasafumi | 2019-05-28 05:18 | つぶやき | Comments(0)
令和
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新元号『令和』が発表された。

自分の中では、まだ平成が終わる実感はないが、令和という新しい時代に対する期待は高まっている。


「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す」

菅氏によると、新元号の出典は、日本最古の歌集「万葉集」の「梅花(うめのはな)の歌三十二首」。日本の古典に由来する元号は初めて。

「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味を込めて。



自分が前向きな気持ちになったのは、令和という新元号が提案として素晴らしかったからだ。

自分的には100点満点に近い。こんな大仕事をやりのけた関係者の方々を本当にリスペクトする。


おそらく自分が新元号を企画して提案する機会は無いだろうが、普段の仕事の中で何かを企画し提案することは誰しもあると思うので、なぜあの新元号発表が素晴らしかったか。

それは…


1. 提案する側とされる側に緊張関係がある。

生中継をつける前までは「新元号かぁ」くらいの感覚だったのに、11時半になると、見ていたほとんどの人がなんだかソワソワし、緊張していたように思う。

(あの菅官房長官もロボットのように硬くなっていた…)

数十年使うことになる時代の代名詞だから仕方ない。

ただ、ここで大事なのはプレゼンテーションには緊張関係が必要ということ

ナアナアでやるプレゼンからは良いものは生まれない。

お互いに、これに懸けているんだという気持ちがあって、切磋琢磨が起き、良い企画に仕上がっていく。

忘れがちだが、提案前の期待づくりこそ第1の勝負ポイントだと思う。



2.相手の予想を裏切り、斜め上を提案する。

令和と発表されたとき、多分多くの人が「え…」となったと思う。

声の発表だけでは聞き取れないくらいには予想外だったし、掲げられた後にも一瞬シーンとした。

メディアでの事前予想を見ていたからか、多くの人は「なんで安じゃないの…」とか戸惑っていた。

しかし、次の瞬間じわじわと「実はいいんじゃない?!」と感じるようになり、どんどん令和いいね!の声が増えていった。

気がつけば、自分の周りはみんな前向きになっていた。

この斜めの企画こそが提案の本質だと思う。自分自身それは常に意識している。

相手の考えてる範疇のことのほうが下手に引っかかりは生まれないので提案としては通りやすい。

しかしそれでは提案する側の存在価値はほぼないし、何より感動は生まれない。

正論でたどり着く一次アイデアを捨てて、「は?」と一瞬思われることを恐れずにジャンプする。

それを堂々と提案し、「おーこの手があったかぁ!」と膝を打たせる。これがいい提案だと思う。

新元号がメディアトレンドを読みながら(つまり相手の思考範囲を先回りしながら)サプライズと納得のギリギリ地点を狙ったのはその好例だ。



3. 提案が遊ばれ、二次創作を生み出す。

いま世の中には、次々と令和グッズが誕生し、言葉遊びが生まれ、菅官房長官のコラージュ写真が出回っている。

これはもう国民全員の関心ごとだから、そうなってしまうわけだが、いい企画提案というのは二次創作を生むものだと思う。

ネーミングに関しての提案が、プロダクトのデザインに派生したり、新しい店舗の作り方につながったり、外とのコラボレーションを生んだり。

そういう発想を連鎖し、その輪を広げていくのが良いプレゼン。自分がソーシャルイシュー起点でVISIONを描くのも同じ理由だけど、受け手がそういう二次創作に参加することで同じチームになれる。

そこまで計算して提案すると結果は大きく変わってくるはずだ。


これが令和の新元号発表をアナロジーにして、すばらしい企画提案の3条件。


ただ「そもそも元号なんて必要なの?グローバルスタンダードの西暦でええやん!」と思っている人もいると思う。

自分もそう…だった。


今年が平成何年か覚えられなかった自分も、半分その気持ちはあったが今は違う。

やっぱりこういう見、非合理的な文化こそが、オリジナルな空気をつくり、国や時代に輪郭を与えていく。

何もしなくても資本主義と技術革新によって、あらゆる物事が合理的・画一的になっていく中で、こういう文化を残して楽しめるかどうかは、大事だし、ある意味で自分らの教養が試されているんだと思っている。



新しい元号は、4月30日の天皇陛下が退位に伴い、新天皇が即位する5月1日午前0時に施行される。

1989年1月8日に始まった平成は、2019年4月30日をもって、30年113日の歴史に幕を閉じることになる。



by kotanimasafumi | 2019-04-06 12:07 | つぶやき | Comments(0)
歩行禅

夜に散歩へ出かける話。


取り組んでいることが行き詰まったり、考えが煮詰まったりした際、「なんとなく出歩く」ことで、脳は散らかった頭の中を整理するらしい。日本では古くから「歩行禅」と呼ばれているのだそう。


自分の住む地域は広島市内から車で20分程度の郊外団地だけど、田んぼもあったり、緑地や公園がいくつもある。

山々に囲まれ、市街地の雑踏から離れたい時の憩いの場探しには事欠かない。

「自然の中」というには人工物が目につきすぎるが、静かな場所を求めるには十分だ。

物思いにふける時や、頭をからっぽにしたい時など、「ここではないどこか」に行きたい気分になると、ささやかな自由を求めて散歩に出かける。

ただし、昼間に出かけることは滅多になく、白み始める前の早朝だ。
そんなどこかナイーブな趣味を、かれこれ2年は続けている。

日課というほどコンスタントではなく、あくまで「なんとなく」出かける。

リフレッシュにおいて、ささやかな自由をいかに自然体をもって得られるかが私にとっては大切なのである。

早朝でも、犬の散歩している人もいればウォーキングを嗜む人もいるし、思い思いのスタイルで歩く。


とはいえ、その散歩はお気楽な動機からくるものではなく、大抵の場合が自分がいっぱいいっぱいの時だ。

若輩ながらあれこれと複合的な思案が絶えない境遇にあるせいか、特定の場所に居心地を求められない心境を常に抱えている。

なので、そんな風にどこへともなく赴くままに出歩くことが、気分を落ち着かせる方法になっている。

誰に話して良いものかわからないこと、そもそも話すべきか、話さないでいるべきかもわからないこと、言葉にした途端に蒸発してしまいそうな微妙なニュアンスを帯びたこと。
「なんでも話せる間柄」なる人物がいたとしても、ついぞ口にすることはないそれらを連れて、益体のない時間をただ過ごす。

それらに気を向けるうえで日中は外的刺激が多過ぎるため、身体からごく狭い範囲に注意が向くようになる朝、その時間が呼んでくる暁の中、外に出る。

もうそろそろいい加減にと思いながら、意識の真ん中で未だに居座る事柄を思案する毎日。

本当、こんな繰り返しがいつまで続くんだろうと途方に暮れては、同じくこんな事をいつまで続けるんだろうと思いながら朝を歩く。

きっとそれが今の自分を自分たらしめている事柄とイコールの関係でもあるから、その状況から脱せない限りは常に考えざるを得ないという事もわかっている。

ぐちゃぐちゃで、噛み合う事も、交わることもない要素で満ちた事柄を持て余しているという事は、自分自身を持て余しているという事と同義である。

今でこそそんな状況なのに、この先このような事柄がもっと増えていくのかと思うと辟易してしまう。増えるばかりか、今抱えている事はこの先一生をかけて肥大化していくことが明らかなのだ。

普段は考え方次第とも気の持ち様とも、自己暗示の方向を強引に変えて余所行きの日常を過ごしているが、いざ個人の時間を過ごすと、嫌になる程それらが降りかかってくる。もっとも自由に使えるはずの無用の時間が、自分にとってはもっとも苦痛なのだ。

だから自分は、自分の時間を、自分を塗り潰すようにまだ薄暗い道を歩く。うっすらと見える道に、まるで自分が消え入るかのような感覚を求めて。

誰もおらず、誰の目にも触れず、誰を気にかけずとも良い空間に、自分という意識が溶けていくその感覚が唯一の安らぎだ。それが、自分が存在すること自体に覚える堪え難い苦痛を和らげられる唯一の方法なのだ。


自分であることを自覚した上で安らいだことなど何一つない。喜怒哀楽でさえそうだ。自分が消え入るかのような感覚を抱く時、ただ無に近づく時にしか自分の安らぎはない。ささやかな自由とはそのことだ。

ああ。歩きに行こうかな。


by kotanimasafumi | 2019-03-07 05:15 | つぶやき | Comments(0)
定義すること

ある現象を観察してそこにある共通性を発見し、定義を自分の中に作り出す。人の思考はその積み重ねで成り立つ。
赤ん坊を観察するとそれがよく分かる。
これは何をするもの、これはあれと同じ、これはもしかしたらあれかも。

大人になると意識しないかもしれないが、自分の中の定義は日々更新されている。例えば、自分がある人を好きだ、というのも定義だ。そう定義することで自分の欲求を説明できる。いつしか定義と現象が乖離するようになれば、定義を書き換える(私はあの人をもう好きではない)。
また、定義は他者と共有することを求められる。ルール、マナー、道徳、宗教、社会、法律。定義は拡張される。

定義を共有することによるメリットは大きく、人類はそれによりここまで発達した。
そのうちに、定義を勝手に作ったり書き換えると、社会に良くないことを学ぶ(これも定義だ)。

しかし本来、定義は自分が生きるために、赤ん坊の例のように、積極的に自ら作り出すものだ。

定義を作り出す。現象に合わなければすぐに書き直す。
これはクリエーションだ。

定義を共有することも意味がある。
また、自分なりの定義を次々と生み出し、更新していくことも、人が生きるために必要なことだ。

クリエーションとはそういうことではないだろうか。


by kotanimasafumi | 2019-02-08 22:54 | つぶやき | Comments(0)
-己に克ちて礼に復るを仁となす -
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平成最後の年。

まだ挑戦権を得たに過ぎない。いまだ何かを成し遂げたわけではない。
道半ば、ここで満足してしまうわけにはいかない。まだまだやらなければならないことはたくさん残っているはずだ。
勝負はここからが本番である。他者にはもちろんのこと、まずは自分自身に負けないこと。
そのためにも克己心を持ってより自分を高めていこう。
そうすればきっと素晴らしい結果が待っているはずである。
常に自問自答をしてみよう…「今日の自分を超えることができただろうか?」と。

礼を失っては"失礼"

ましてや無くしてしまっては"無礼"な態度だということ。

さらには形だけの例は"虚礼"ということ。


即ち私利私欲に打ち勝ち、我儘を貫く事なく、自分勝手な振る舞いをしない。
社会の規範である礼に準じて行動することが仁である。

自分の身勝手を行わないように、心では自分というものを引き締め、この克己復礼で仁を行うことができたら、この己の身勝手に打ち勝って自分が礼を実践し得るようにすることは、結局、自分の力によってできる事であって、他人の力に俟ってできるものではない。
すべて、人の身に具わった心の働きによるもので、いわゆる「我仁を欲すれば、斯に仁」が行えるのであると。
思いやりは目に見えない。それを目に見せる方法こそが、挨拶やお辞儀といった「礼」。
そう、仁は「こころ」であり、礼は「かたち」。

現代は物質が豊かになり、眼に見える楽しみがいっぱいあることは良いことだが、
眼に見えない人を大切にする行動、
お墓参りしたり、仏壇や神棚に物飯をささげる行為は、
具体的生活に見える利便性や合理性は無いが「礼」の実践に違いない。

この挑戦権を与えてくれた方々に感謝。


by kotanimasafumi | 2019-01-04 16:35 | つぶやき | Comments(0)
インプットとアウトプット

入り口 と 出口


input と output とも言いますが、
"情報を仕入れて、知識として定着させるためには、

話す。書く。発信する。など外に向けて話してみると

アレ、ここどうやったっけ。。という情報の抜け、
アーそうだったんか。。 と理解の抜けの補完。

ができるようになる。なので、間違っていてもどんどん
アウトプットして情報を知識として定着させましょう。”


ということですが、
インプットが良いとアウトプットの精度、質も向上する。

という当たり前のことを再認識することが最近多い。です。

良いも悪いも。


今までの常識を再度仕入れ直すことも含めて、
良質インプット、新しい情報にブラッシュアップする事しか

新しい、強いアウトプットはない。


…と思います。


by kotanimasafumi | 2018-12-16 11:35 | つぶやき | Comments(0)
「要求される仕事の期待値」

知人に何人かの建築家がいて、それぞれタイプは違うが天文学的に尊敬している。

建築家のクリエイションが特殊なのは「感覚と同時に実務が伴う」という点かもしれない。

そこだけは自分的には到底想像できない。

ミュージシャンやダンサーのように肉体一つで勝負するカッコよさとは違う凄さ。

力学的に正しく、予算と工期と法規を守り、その上でいいデザインを完成させる。


別の側面から言えば建築は数億、数百億かかるってこともある。

ポイントはそれだけの予算をかける仕事を誰に頼むか、には決定的な根拠が必要だってこと。

ここはどんな仕事にも共通していて、ギャラが10万円の仕事を10年やっていてもキャリアにはならない。

10年頑張ったから能力が上がったかというと上がっていない。

「要求される仕事の期待値」が変わってないからだ。

それより、100万円の仕事を5回した方がいいかもしれない。

相手が会社の経費としてそれだけ払う価値があるかを、目を皿のようにして見ている。

その中で仕事をしていれば能力は上がると思う。


by kotanimasafumi | 2018-10-18 05:26 | つぶやき | Comments(0)
これは思い出す作業


子供が川を眺めて、あそこだけ動きが違うね、という。

たしかに違う。

目の前に同じ風景を見ているが気づくポイントが違う。

あの下に石でもあるのかな?って見えない世界の先を少し想像している。すごくあたり前だけど大人が絶対的にできなくなる所作の1つだ。

歳を重ねるにつれて僕らは世界のありようや、法則を覚えていく。捉えきれないほどの情報をこのルールで予想し脳への負荷を軽量化する。生きることを楽にするために人間に備わった機能だ。

今日も何度もアイデアのスタディを繰り返す。
これは思い出す作業だと。
かつて子供の頃に当たり前にやっていた所作を思い出す。

1つ大人の当たり前が決壊すればあとは容易だ。
その最初の一撃が打ち込めるかどうか。
たったそれだけの話。
あと少し。

頑張ろう。


by kotanimasafumi | 2018-09-02 20:25 | つぶやき | Comments(0)
感覚することの想像力

南方熊楠という日本の思想史の中でも異彩を放った人がいます。

生涯を通して粘菌を研究したのですが、その思想はその植物学、微生物学に留まらず、民俗学、哲学までも、というか、もはやそういったカテゴリーを拒絶するぐらいの壮絶なる思考を生み出しました。
その熊楠の思想の中に、「事の学」というものがあります。

「心」と「物」が交わるところに「事」が生まれ、この世界のあらゆるものが「事」として現象する。

そして彼は、この「事」の本質に対する洞察が学問に欠けていると考えました。
彼はその「事」の例として、建築をあげています。


建築家は、建物のイメージやアイデアを心にえがき、それを図面化し、模型をつくり、それを元にして職人さんの手によって建物が造られます。

つまり、設計図や模型、そして職人さんとのコミュニケーションが「心」と「物」を結ぶ「事」なのです。
それだけでなく、建築にはもう一つの「事」が生まれると僕は考えています。

それは、完成した後の建物とそこに訪れたり、住んだりする人の感情・行為との間に生まれる「事」です。

この二重の「事」をどのようなかたちで生み出すか、それが建築という行為だと思います。


by kotanimasafumi | 2018-08-25 06:39 | つぶやき | Comments(0)