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令和
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新元号『令和』が発表された。

自分の中では、まだ平成が終わる実感はないが、令和という新しい時代に対する期待は高まっている。


「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す」

菅氏によると、新元号の出典は、日本最古の歌集「万葉集」の「梅花(うめのはな)の歌三十二首」。日本の古典に由来する元号は初めて。

「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味を込めて。



自分が前向きな気持ちになったのは、令和という新元号が提案として素晴らしかったからだ。

自分的には100点満点に近い。こんな大仕事をやりのけた関係者の方々を本当にリスペクトする。


おそらく自分が新元号を企画して提案する機会は無いだろうが、普段の仕事の中で何かを企画し提案することは誰しもあると思うので、なぜあの新元号発表が素晴らしかったか。

それは…


1. 提案する側とされる側に緊張関係がある。

生中継をつける前までは「新元号かぁ」くらいの感覚だったのに、11時半になると、見ていたほとんどの人がなんだかソワソワし、緊張していたように思う。

(あの菅官房長官もロボットのように硬くなっていた…)

数十年使うことになる時代の代名詞だから仕方ない。

ただ、ここで大事なのはプレゼンテーションには緊張関係が必要ということ

ナアナアでやるプレゼンからは良いものは生まれない。

お互いに、これに懸けているんだという気持ちがあって、切磋琢磨が起き、良い企画に仕上がっていく。

忘れがちだが、提案前の期待づくりこそ第1の勝負ポイントだと思う。



2.相手の予想を裏切り、斜め上を提案する。

令和と発表されたとき、多分多くの人が「え…」となったと思う。

声の発表だけでは聞き取れないくらいには予想外だったし、掲げられた後にも一瞬シーンとした。

メディアでの事前予想を見ていたからか、多くの人は「なんで安じゃないの…」とか戸惑っていた。

しかし、次の瞬間じわじわと「実はいいんじゃない?!」と感じるようになり、どんどん令和いいね!の声が増えていった。

気がつけば、自分の周りはみんな前向きになっていた。

この斜めの企画こそが提案の本質だと思う。自分自身それは常に意識している。

相手の考えてる範疇のことのほうが下手に引っかかりは生まれないので提案としては通りやすい。

しかしそれでは提案する側の存在価値はほぼないし、何より感動は生まれない。

正論でたどり着く一次アイデアを捨てて、「は?」と一瞬思われることを恐れずにジャンプする。

それを堂々と提案し、「おーこの手があったかぁ!」と膝を打たせる。これがいい提案だと思う。

新元号がメディアトレンドを読みながら(つまり相手の思考範囲を先回りしながら)サプライズと納得のギリギリ地点を狙ったのはその好例だ。



3. 提案が遊ばれ、二次創作を生み出す。

いま世の中には、次々と令和グッズが誕生し、言葉遊びが生まれ、菅官房長官のコラージュ写真が出回っている。

これはもう国民全員の関心ごとだから、そうなってしまうわけだが、いい企画提案というのは二次創作を生むものだと思う。

ネーミングに関しての提案が、プロダクトのデザインに派生したり、新しい店舗の作り方につながったり、外とのコラボレーションを生んだり。

そういう発想を連鎖し、その輪を広げていくのが良いプレゼン。自分がソーシャルイシュー起点でVISIONを描くのも同じ理由だけど、受け手がそういう二次創作に参加することで同じチームになれる。

そこまで計算して提案すると結果は大きく変わってくるはずだ。


これが令和の新元号発表をアナロジーにして、すばらしい企画提案の3条件。


ただ「そもそも元号なんて必要なの?グローバルスタンダードの西暦でええやん!」と思っている人もいると思う。

自分もそう…だった。


今年が平成何年か覚えられなかった自分も、半分その気持ちはあったが今は違う。

やっぱりこういう見、非合理的な文化こそが、オリジナルな空気をつくり、国や時代に輪郭を与えていく。

何もしなくても資本主義と技術革新によって、あらゆる物事が合理的・画一的になっていく中で、こういう文化を残して楽しめるかどうかは、大事だし、ある意味で自分らの教養が試されているんだと思っている。



新しい元号は、4月30日の天皇陛下が退位に伴い、新天皇が即位する5月1日午前0時に施行される。

1989年1月8日に始まった平成は、2019年4月30日をもって、30年113日の歴史に幕を閉じることになる。



by kotanimasafumi | 2019-04-06 12:07 | つぶやき | Comments(0)
歩行禅

夜に散歩へ出かける話。


取り組んでいることが行き詰まったり、考えが煮詰まったりした際、「なんとなく出歩く」ことで、脳は散らかった頭の中を整理するらしい。日本では古くから「歩行禅」と呼ばれているのだそう。


自分の住む地域は広島市内から車で20分程度の郊外団地だけど、田んぼもあったり、緑地や公園がいくつもある。

山々に囲まれ、市街地の雑踏から離れたい時の憩いの場探しには事欠かない。

「自然の中」というには人工物が目につきすぎるが、静かな場所を求めるには十分だ。

物思いにふける時や、頭をからっぽにしたい時など、「ここではないどこか」に行きたい気分になると、ささやかな自由を求めて散歩に出かける。

ただし、昼間に出かけることは滅多になく、白み始める前の早朝だ。
そんなどこかナイーブな趣味を、かれこれ2年は続けている。

日課というほどコンスタントではなく、あくまで「なんとなく」出かける。

リフレッシュにおいて、ささやかな自由をいかに自然体をもって得られるかが私にとっては大切なのである。

早朝でも、犬の散歩している人もいればウォーキングを嗜む人もいるし、思い思いのスタイルで歩く。


とはいえ、その散歩はお気楽な動機からくるものではなく、大抵の場合が自分がいっぱいいっぱいの時だ。

若輩ながらあれこれと複合的な思案が絶えない境遇にあるせいか、特定の場所に居心地を求められない心境を常に抱えている。

なので、そんな風にどこへともなく赴くままに出歩くことが、気分を落ち着かせる方法になっている。

誰に話して良いものかわからないこと、そもそも話すべきか、話さないでいるべきかもわからないこと、言葉にした途端に蒸発してしまいそうな微妙なニュアンスを帯びたこと。
「なんでも話せる間柄」なる人物がいたとしても、ついぞ口にすることはないそれらを連れて、益体のない時間をただ過ごす。

それらに気を向けるうえで日中は外的刺激が多過ぎるため、身体からごく狭い範囲に注意が向くようになる朝、その時間が呼んでくる暁の中、外に出る。

もうそろそろいい加減にと思いながら、意識の真ん中で未だに居座る事柄を思案する毎日。

本当、こんな繰り返しがいつまで続くんだろうと途方に暮れては、同じくこんな事をいつまで続けるんだろうと思いながら朝を歩く。

きっとそれが今の自分を自分たらしめている事柄とイコールの関係でもあるから、その状況から脱せない限りは常に考えざるを得ないという事もわかっている。

ぐちゃぐちゃで、噛み合う事も、交わることもない要素で満ちた事柄を持て余しているという事は、自分自身を持て余しているという事と同義である。

今でこそそんな状況なのに、この先このような事柄がもっと増えていくのかと思うと辟易してしまう。増えるばかりか、今抱えている事はこの先一生をかけて肥大化していくことが明らかなのだ。

普段は考え方次第とも気の持ち様とも、自己暗示の方向を強引に変えて余所行きの日常を過ごしているが、いざ個人の時間を過ごすと、嫌になる程それらが降りかかってくる。もっとも自由に使えるはずの無用の時間が、自分にとってはもっとも苦痛なのだ。

だから自分は、自分の時間を、自分を塗り潰すようにまだ薄暗い道を歩く。うっすらと見える道に、まるで自分が消え入るかのような感覚を求めて。

誰もおらず、誰の目にも触れず、誰を気にかけずとも良い空間に、自分という意識が溶けていくその感覚が唯一の安らぎだ。それが、自分が存在すること自体に覚える堪え難い苦痛を和らげられる唯一の方法なのだ。


自分であることを自覚した上で安らいだことなど何一つない。喜怒哀楽でさえそうだ。自分が消え入るかのような感覚を抱く時、ただ無に近づく時にしか自分の安らぎはない。ささやかな自由とはそのことだ。

ああ。歩きに行こうかな。


by kotanimasafumi | 2019-03-07 05:15 | つぶやき | Comments(0)
定義すること

ある現象を観察してそこにある共通性を発見し、定義を自分の中に作り出す。人の思考はその積み重ねで成り立つ。
赤ん坊を観察するとそれがよく分かる。
これは何をするもの、これはあれと同じ、これはもしかしたらあれかも。

大人になると意識しないかもしれないが、自分の中の定義は日々更新されている。例えば、自分がある人を好きだ、というのも定義だ。そう定義することで自分の欲求を説明できる。いつしか定義と現象が乖離するようになれば、定義を書き換える(私はあの人をもう好きではない)。
また、定義は他者と共有することを求められる。ルール、マナー、道徳、宗教、社会、法律。定義は拡張される。

定義を共有することによるメリットは大きく、人類はそれによりここまで発達した。
そのうちに、定義を勝手に作ったり書き換えると、社会に良くないことを学ぶ(これも定義だ)。

しかし本来、定義は自分が生きるために、赤ん坊の例のように、積極的に自ら作り出すものだ。

定義を作り出す。現象に合わなければすぐに書き直す。
これはクリエーションだ。

定義を共有することも意味がある。
また、自分なりの定義を次々と生み出し、更新していくことも、人が生きるために必要なことだ。

クリエーションとはそういうことではないだろうか。


by kotanimasafumi | 2019-02-08 22:54 | つぶやき | Comments(0)
-己に克ちて礼に復るを仁となす -
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平成最後の年。

まだ挑戦権を得たに過ぎない。いまだ何かを成し遂げたわけではない。
道半ば、ここで満足してしまうわけにはいかない。まだまだやらなければならないことはたくさん残っているはずだ。
勝負はここからが本番である。他者にはもちろんのこと、まずは自分自身に負けないこと。
そのためにも克己心を持ってより自分を高めていこう。
そうすればきっと素晴らしい結果が待っているはずである。
常に自問自答をしてみよう…「今日の自分を超えることができただろうか?」と。

礼を失っては"失礼"

ましてや無くしてしまっては"無礼"な態度だということ。

さらには形だけの例は"虚礼"ということ。


即ち私利私欲に打ち勝ち、我儘を貫く事なく、自分勝手な振る舞いをしない。
社会の規範である礼に準じて行動することが仁である。

自分の身勝手を行わないように、心では自分というものを引き締め、この克己復礼で仁を行うことができたら、この己の身勝手に打ち勝って自分が礼を実践し得るようにすることは、結局、自分の力によってできる事であって、他人の力に俟ってできるものではない。
すべて、人の身に具わった心の働きによるもので、いわゆる「我仁を欲すれば、斯に仁」が行えるのであると。
思いやりは目に見えない。それを目に見せる方法こそが、挨拶やお辞儀といった「礼」。
そう、仁は「こころ」であり、礼は「かたち」。

現代は物質が豊かになり、眼に見える楽しみがいっぱいあることは良いことだが、
眼に見えない人を大切にする行動、
お墓参りしたり、仏壇や神棚に物飯をささげる行為は、
具体的生活に見える利便性や合理性は無いが「礼」の実践に違いない。

この挑戦権を与えてくれた方々に感謝。


by kotanimasafumi | 2019-01-04 16:35 | つぶやき | Comments(0)
インプットとアウトプット

入り口 と 出口


input と output とも言いますが、
"情報を仕入れて、知識として定着させるためには、

話す。書く。発信する。など外に向けて話してみると

アレ、ここどうやったっけ。。という情報の抜け、
アーそうだったんか。。 と理解の抜けの補完。

ができるようになる。なので、間違っていてもどんどん
アウトプットして情報を知識として定着させましょう。”


ということですが、
インプットが良いとアウトプットの精度、質も向上する。

という当たり前のことを再認識することが最近多い。です。

良いも悪いも。


今までの常識を再度仕入れ直すことも含めて、
良質インプット、新しい情報にブラッシュアップする事しか

新しい、強いアウトプットはない。


…と思います。


by kotanimasafumi | 2018-12-16 11:35 | つぶやき | Comments(0)
「要求される仕事の期待値」

知人に何人かの建築家がいて、それぞれタイプは違うが天文学的に尊敬している。

建築家のクリエイションが特殊なのは「感覚と同時に実務が伴う」という点かもしれない。

そこだけは自分的には到底想像できない。

ミュージシャンやダンサーのように肉体一つで勝負するカッコよさとは違う凄さ。

力学的に正しく、予算と工期と法規を守り、その上でいいデザインを完成させる。


別の側面から言えば建築は数億、数百億かかるってこともある。

ポイントはそれだけの予算をかける仕事を誰に頼むか、には決定的な根拠が必要だってこと。

ここはどんな仕事にも共通していて、ギャラが10万円の仕事を10年やっていてもキャリアにはならない。

10年頑張ったから能力が上がったかというと上がっていない。

「要求される仕事の期待値」が変わってないからだ。

それより、100万円の仕事を5回した方がいいかもしれない。

相手が会社の経費としてそれだけ払う価値があるかを、目を皿のようにして見ている。

その中で仕事をしていれば能力は上がると思う。


by kotanimasafumi | 2018-10-18 05:26 | つぶやき | Comments(0)
これは思い出す作業


子供が川を眺めて、あそこだけ動きが違うね、という。

たしかに違う。

目の前に同じ風景を見ているが気づくポイントが違う。

あの下に石でもあるのかな?って見えない世界の先を少し想像している。すごくあたり前だけど大人が絶対的にできなくなる所作の1つだ。

歳を重ねるにつれて僕らは世界のありようや、法則を覚えていく。捉えきれないほどの情報をこのルールで予想し脳への負荷を軽量化する。生きることを楽にするために人間に備わった機能だ。

今日も何度もアイデアのスタディを繰り返す。
これは思い出す作業だと。
かつて子供の頃に当たり前にやっていた所作を思い出す。

1つ大人の当たり前が決壊すればあとは容易だ。
その最初の一撃が打ち込めるかどうか。
たったそれだけの話。
あと少し。

頑張ろう。


by kotanimasafumi | 2018-09-02 20:25 | つぶやき | Comments(0)
感覚することの想像力

南方熊楠という日本の思想史の中でも異彩を放った人がいます。

生涯を通して粘菌を研究したのですが、その思想はその植物学、微生物学に留まらず、民俗学、哲学までも、というか、もはやそういったカテゴリーを拒絶するぐらいの壮絶なる思考を生み出しました。
その熊楠の思想の中に、「事の学」というものがあります。

「心」と「物」が交わるところに「事」が生まれ、この世界のあらゆるものが「事」として現象する。

そして彼は、この「事」の本質に対する洞察が学問に欠けていると考えました。
彼はその「事」の例として、建築をあげています。


建築家は、建物のイメージやアイデアを心にえがき、それを図面化し、模型をつくり、それを元にして職人さんの手によって建物が造られます。

つまり、設計図や模型、そして職人さんとのコミュニケーションが「心」と「物」を結ぶ「事」なのです。
それだけでなく、建築にはもう一つの「事」が生まれると僕は考えています。

それは、完成した後の建物とそこに訪れたり、住んだりする人の感情・行為との間に生まれる「事」です。

この二重の「事」をどのようなかたちで生み出すか、それが建築という行為だと思います。


by kotanimasafumi | 2018-08-25 06:39 | つぶやき | Comments(0)
無力さの自覚

あの時、Twitterのタイムラインで救助要請のツイートを見ていた。

西日本豪雨によって自宅が浸水し、避難できずに取り残されている人の言葉だ。

「早く助けてください」

心が痛んだ。

その方のプロフィールと、豪雨前のツイートを読む。

たぶん、自分よりずっと若い女性だ。

今はご家族と自宅の2階にいて、2階も浸水しはじめている。

早く、一刻も早く、安全なところへ行って安心したいだろう。このままじゃ死んでしまうかもしれない、という恐怖に震えているかもしれない。

助かってほしい。Twitterの画面の見つめ、念じる。

だけど、自分にはどうにもできない。

リツイートしようとしたとき、その救助要請ツイートに対して他の方が「この方は無事に救助されたそうです」と引用リツイートしているのを見つけた。


良かった。


いや、その方にとっては、災害に遭わないほうが良かったに違いない。

でも、救助されないよりは、救助されて良かった。

すべての人が、無事に救助されたらいい。暖かいところで、安心して眠れたらいい。

そう願うだけで、自分は何もできない。


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災害が起こるたびに、自分の無力さを実感する。


誰かを救いたいとか、誰かの役に立ちたいと思ったとき、まずは自分の無力さに自覚的であることが必要だとも思う。

無力だからと諦めるのではなく、無力さを思い知ったうえで、自分にできる最善を考えること。


「救いたい」という気持ちを否定したいわけではない。

「救えるはず」という思い込みが、おこがましいと思ってしまう。


自分の善意が、必ずしも相手にとって救いになるとは限らない。

自分の気持ちと相手の気持ちは、まったく別のものだからだ。

妻や両親が自分のためを思ってしてくれたことに対して、「気持ちはありがたいけど、まぁ、ぶっちゃけ嬉しくはないな」と思ったことは、たくさんある。

逆も然り。


自分が善意でやったことが、相手にとっては「たいして嬉しくない」ことかもしれない。


それは、どうにもできない。だからこそ、せめてそのことを自覚していたいと思う。

自分の無力さを自覚せず、自分にできる「救済」が相手にとっても「救済」になると思い込むと、例のスラム街観光で炎上した大学生みたいになる。


「自分の知らない世界を見てみたい」という欲求そのものは、否定しない。知的好奇心は誰にでもあるものだし、他人が否定するべきではないと思う。

ただ、それはあくまでも「自分の欲求」だ。


「貧困の子供たち」や「日本のジャーナリズム」への貢献には、残念ながらなり得ないだろう。彼らが企画した程度のこと(現地の子どもとの交流、映像作品の制作)では、他者や社会に貢献できないと思う。

彼らは、自らの無力を自覚したことがないのだろうか?


自分の無力さを自覚するのは、決してネガティブなことではないと思う。

無力なりにできることは0ではないし、自覚しているからこそ「善意を押しつけない」ことに注意深くいられるかもしれない。



by kotanimasafumi | 2018-07-14 09:26 | つぶやき | Comments(0)
記録的豪雨
これまでにない経験のような豪雨が広い範囲を襲った。
西日本を中心に、土砂災害や河川の氾濫が相次ぎ、
多くの犠牲者が出ており、刻一刻とその状況は危機的状況へと変化していく。
住宅のほか鉄道や道路などインフラも甚大な被害を受け、不明者の捜索を急ぐとともに、これ以上被害が出ないように警戒を強める必要がある。

6日以降、広島県をはじめとして岡山、鳥取、福岡、京都などの11府県に大雨特別警報が発令。
「重大な危機が差し迫った異常事態」と、気象庁が強く警戒を訴えた通り、記録的な降雨量に見舞われた。

--
□平成30年7月8日 気象速報 広島地方気象台
https://www.jma-net.go.jp/hiroshima/siryo/20180709_sokuhou.pdf

7月3日0時~8日12時までの総降水量は、呉市蒲刈517.5mm、三原市本郷490.5mmを観測。
7月5~7日の72時間雨量を見ても広島県内広く400mmを超えている。
場所によっては600mmに迫り、観測史上最大の雨量を記録したと所も多くそれは広島県内だけに限らず岡山や愛媛をはじめ瀬戸内周辺の地域に広く分布。
5日未明から本降りの雨が降り続け、台風によってすでに先行雨量で200mm近い大雨となり地盤がすでの相当緩んでいたところに
6日夕方と7日早朝の2度、非常に激しい雨のピークが襲うという例年にない状況。
6日夕方から7日朝までの半日ほどで350mmを超える記録的な雨量。
--

夜明けとともに各地の甚大な被害状況が伝えられ、言葉を失った。
4年前の2014年8月の広島土砂災害と異なり、局所的ではなく広範囲に強い雨が降り続くという…まさか。
あちこちの駅が冠水し、線路が流され、道路が泥水色に変わり、家々がなぎ倒され、車が流され、どこが川でどこが道路で普段の水位はどのくらいか全く分からない状況が戦々恐々とニュースに流れる。
あちこちが陥没、土砂崩れなどで通行止めが続く。
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--
□中国地方の国道の通行止め区間 / 国道事務所
http://www.cgr.mlit.go.jp/mkisha/cgi-bin/kisha.exe
□中国地方の高速道路の通行止め区間 / NEXCO西日本
http://www.w-nexco.co.jp/
htt://ihighway.jp/web/
--

多くの被害者が出ており、交通網が寸断され、停電や断水などインフラを断たれた地域もあり、生活がままらない中で、まずは身辺の状況把握と的確な判断が欠かせない。
危険を感じたら避難すべきだが、動くとかえって危険な場合は、とどまって建物の上の階にいるなど、冷静な行動をとる必要がある。
被災地では警察や消防など自衛隊が4万8千人態勢で捜索や救助活動に当たっているという。
期待したいが二次被害に十分気を付けて活動してもらいたい。
3年前、国土交通省は明らかに雨の降り方が変化していることを「新たなステージ」と捉え、
防災の在り方を示した。
広島土砂災害を引き起こした線状降水帯による集中豪雨をはじめ、雨の局地化・激甚化が全国で顕著によるもの。
「命を守る行動を」という呼びかけが、九州などで災害が発生するたびに叫ばれるのを耳にしてきた。
他人事ではなく、防災の心構えと万が一の際の行動をいま一度、胸に刻む必要がある。
被害を食い止め、復旧を急ぐことは大事だが、同時に地域を点検し直すことも必要。
防災士をはじめ、地域の防災リーダーを育成し、実際に動ける体制を構築し、災害に強いまちづくりを願う。

□土砂災害ポータブルひろしま
http://www.sabo.pref.hiroshima.lg.jp/portal/top.aspx
□広島県土砂災害危険情報
http://www.d-keikai.pref.hiroshima.lg.jp/public/Top.aspx
□広島県防災WEB
http://www.bousai.pref.hiroshima.jp/

by kotanimasafumi | 2018-07-08 04:24 | つぶやき | Comments(0)