「家族だから」「友達だから」「恋人だから」「仲間だから」と言って、名前の付いた関係に寄りかかってしまうのは怖い。
明確に名前を付けられる関係は、「このくらい相手はわかってくれるだろう」という油断を許す理由にはならない。
血を分けていようと、10年付き合っていようと、盃を交わそうと、セックスしようと、「だからあなたは私のことをわかってくれるでしょう?」とはならない。
集団の中では「私たち似た者同士だね」と思っても、
個対個になればなるほど、
人間の絶望的なわかり合えなさが浮かび上がってくる。
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そういう油断が、「私とあの子は10年来の付き合いなのに、ぽっと出の男と結婚するなんて!あんな野郎より私の方があの子のことを知っているのに!」みたいな感情につながる。
こういうごく当たり前のことに躓いてナヨナヨしてる時間が一番情けなく無駄に感じる。
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だから、どうやって知り合ったかもわからないけど一緒にいるとただ楽しいからいつも会っている、みたいな関係にすごく憧れる。
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学校の教科書には、この世で一番頭が良い人たちが見ている世界をデフォルメした世界が書かれていると思う。
そんなにきれいに世界が見えるわけないし、
もっといえば、自分と隣の席に座っている人が同じ教科書から読み取る内容は多分全然違うと思う。
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カラーコードでいうと、RGB値を16進数で表現したものだ。
自分の見ている世界が0000ffで、友達の見ている世界は0020eeだ。
2人とも見ている世界は鮮やかな青色で、「私たち似てるよな〜」と意気投合する。
それでも時折、「あいつはやっぱり緑っぽいところあるよな」「私の方が青が強すぎるよな」みたいな差異を感じる。
そしてある日、その差異を原因とした事故が起こって愕然とする。
やっぱり私とあいつは違うんだ、同じわけはないんだと。
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やっぱりそういう当たり前のことにがっかりして絶望する時間は嫌い。