自分たちは日頃から、あらゆるものを数えて生きている。
バスが出るまで何分?前から歩いてくるのは何人?財布の中の金額は?呼吸するように数えている。
少なくとも自分は、そうだ。
もっとも、手持ちの現金から、おつりが少なくなるような組み合わせを即時に考えて支払いをする、というささやかなゲームは、昨今では気持ち悪いと言われているらしい。残念だなぁ、と思うし、少し悲しい。
数えることが苦手な人は、管理が苦手だ。
管理とは数量の把握だと思っている。夏休みの残り日数と、宿題の残りの量を数えて、天秤にかけることを日々行っていないと最終日に天秤が壊れてしまう。
足し算と引き算は、この「数える」という能力を、極めた果てにあるスキルだ…と思う。算数は『1』の個数を数えるゲームという側面を持っているので、多分間違いではない。
子供には小学校に上がるまえに、たくさん数えてほしい、ということだ。
色鉛筆の本数、画用紙の枚数、パズルのピースに、もらったお菓子。
記念日まで、あと何日か。声を出して、指を指して、指を折って。どうか笑いながら、ゆっくり、たくさん数えてほしい。一緒になって、数えてほしい。
それを目に見える形にしたものが、数式だ。
しかし、数式はあくまで最後。
まずはたくさん数えてほしい。9まで行くと10になって、また1がやってくる。このループを感じてほしい。いつの間にかループが2つになることを、まずは耳から気付いてほしい。呼吸するように自然なこととして、数えることをそばに置いてほしいなぁと思う。
文字としての数字、記録としての数式、紙の上の仮想世界としての計算は、後でいい。むしろ、紙の上に、頭の中に、世界を構築するためには、たくさん数えて、世界を把握してもらう必要があるのだ。