計画を仕事とする設計という行為によって、どうやって計画的思考を超えてゆけるか。
あいかわらずなかなか超えてはゆけない。
その超えてゆけなさの一つの原因は、形式として固有性を失いつつある、在来軸組を内装と外装でくるんでおしまい、というのを無批判に使ってしまっていることにあると思う。
工法として機能的、法規的、その他さまざまな要求に対する合理性があるものだけども、あまりに一般化しすぎて、そこに固有性、もしくは柄谷的な意味での社会性が生まれにくい。
工法としてリスペクトしつつ、どうやればそこにズレやゆらぎを与えることができるか、工法そのものが生き生きとしだすか、というのをちゃんと向き合って考えていかないと、いつまでたっても自分のつくるものは建築には到達できなんじゃないか、という気がしている。
そのためには、工法のそれぞれの要素や機能をひとつひとつ検証して、塚本さん風に言えば再び実践状態に戻す、というような作業が必要なんだろう。
建物としての機能を犠牲にすれば簡単だけど、そう言って、時間や予算を言い訳にしていてはいつまでたっても建築にはたどり着けない気がする。