S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
リンク
my web site >
twitter >
bookshelf >
カテゴリ
せいかつ
しごと
けんちく
でざいん
めでぃあ
たび
ふぉと
つぶやき
おしらせ
いろいろ
以前の記事
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
検索
記事ランキング
画像一覧
着工

いくつか設計のお仕事を進めながら、いくつか現場も同時に動いています。
こう見えてタフなつもりでいるのですが、たまに忙しすぎてクタッとなったり、色々あってヘナッとなったりもします。


それでも現場の様子をみるとまたやる気が出てくるので不思議なものです。


設計段階から何度も打ち合わせを重ねてきて、現場でも大工さんの技術に鍛えられて、ようやくモノになってきました。

残り時間も少なく、ちょっと慌しくなりますがよろしくお願いします。

e0149941_04300974.jpg

# by kotanimasafumi | 2019-09-12 04:30 | しごと | Comments(0)
夏の響

e0149941_01332444.jpg
e0149941_01332870.jpg
e0149941_01333459.jpg
e0149941_01334342.jpg
e0149941_01333895.jpg
夏の響 -宮島水中花火大会-


たった一瞬の閃きに宿るもの。
ほんの一瞬だけ輝く刹那的な物語であり、そうであるからこそ、その一瞬にはあらゆる角度から見られた花火の物語がある…w
約5000発の花火に寄せられた想いが広島の夜空に響くw


# by kotanimasafumi | 2019-08-25 01:34 | たび | Comments(0)
CARAVAN -Dining BAR & Gibier- 3周年祭
■3周年祭のお知らせ

以前、設計監理させて頂きましたCARAVANからのお知らせです。

8月10日でCARAVANは早いもので3周年を迎えます。

いつも賑わっているお店を見て、携われたことを本当に嬉しく思います。

またこの間多くの方々にご来店頂いているのは、オーナーの手腕によるものと改めて実感しています。

これからも、温かいお人柄で素敵な空間を構築し、地域の皆様に愛されるお店としてご活躍されることを期待しています。


e0149941_06015796.jpg
e0149941_06020195.jpg
--
おかげさまで、CARAVANは
3周年を迎えることができました
日頃のご愛顧に感謝をこめて

【CARAVAN 3周年祭】
8/8(木)〜8/10(土)の3日間限定
飲み放題つき各コース ¥1000 OFF!

¥4000 ➡︎ ¥3000
¥4500 ➡︎ ¥3500
¥5000 ➡︎ ¥4000

ランチご注文の方には デザートをサービス致します

3周年ノベルティ:
◼︎ワンセット2個入り
◼︎色のチョイスはこちらにお任せくださいね
◼︎ハンドメイド品になりますので既製品のような均一さはありませんが、
二つと無い味わいをお楽しみください

▶︎ご予約はこちらhttps://localplace.jp/sp/t200316196/からもどうぞ

--

"空間に集う
旬を喜ぶ
時を語らう"


CARAVAN -Dining BAR & Gibier-
□場所:広島県広島市佐伯区楽々園2-1-38-202
□営業:AM11:30 - PM14:30 PM17:00 - AM00:00
□休日:不定休
□電話:082-924-4056


これからもCARAVANを宜しくお願い致します。


# by kotanimasafumi | 2019-08-08 05:53 | おしらせ | Comments(0)
74年目のヒロシマ

e0149941_05342123.jpg
e0149941_05341668.jpg
74年が経った今でもヒロシマは世界の終わりを予感させる場所…。


つまり、もし自分たちがこの悲劇を忘れたならば、いつかまた起こるかもしれない…。
だからこそ、ヒロシマの証言が出来る限り長い間語り継がれ、出来るだけ多くの世界中の人たちに届けられることがとても重要…。


ヒロシマが経験した原爆の惨禍は、
爆撃や火災によって破壊された、世界の他の都市の戦争体験をはるかに超えるもの…。
ヒロシマが発するメッセージをいつまでも記憶するために、被爆者の話しに耳を傾け、自分の目でこの場所を実際に見ることは価値がある…。


# by kotanimasafumi | 2019-08-06 21:27 | つぶやき | Comments(0)
数えること、その先にある、足し算と引き算。

自分たちは日頃から、あらゆるものを数えて生きている。

バスが出るまで何分?前から歩いてくるのは何人?財布の中の金額は?呼吸するように数えている。

少なくとも自分は、そうだ。


もっとも、手持ちの現金から、おつりが少なくなるような組み合わせを即時に考えて支払いをする、というささやかなゲームは、昨今では気持ち悪いと言われているらしい。残念だなぁ、と思うし、少し悲しい。

数えることが苦手な人は、管理が苦手だ。

管理とは数量の把握だと思っている。夏休みの残り日数と、宿題の残りの量を数えて、天秤にかけることを日々行っていないと最終日に天秤が壊れてしまう。


足し算と引き算は、この「数える」という能力を、極めた果てにあるスキルだ…と思う。算数は『1』の個数を数えるゲームという側面を持っているので、多分間違いではない。

子供には小学校に上がるまえに、たくさん数えてほしい、ということだ。

色鉛筆の本数、画用紙の枚数、パズルのピースに、もらったお菓子。

記念日まで、あと何日か。声を出して、指を指して、指を折って。どうか笑いながら、ゆっくり、たくさん数えてほしい。一緒になって、数えてほしい。


それを目に見える形にしたものが、数式だ。

しかし、数式はあくまで最後。

まずはたくさん数えてほしい。9まで行くと10になって、また1がやってくる。このループを感じてほしい。いつの間にかループが2つになることを、まずは耳から気付いてほしい。呼吸するように自然なこととして、数えることをそばに置いてほしいなぁと思う。

文字としての数字、記録としての数式、紙の上の仮想世界としての計算は、後でいい。むしろ、紙の上に、頭の中に、世界を構築するためには、たくさん数えて、世界を把握してもらう必要があるのだ。



# by kotanimasafumi | 2019-07-09 05:36 | Comments(0)
売れる言葉と、ひびく言葉
心が見えない人の言葉は響かない。

心は物質じゃないからもともと見えないんだけど、それでも見えたように感じる言葉を綴れる人はいる。
それができないと、売るための言葉で売上や数字でマウント取り続けて注目を集め続けないといけないから、消耗すればとって代わられる。

プロの物書きであるはずのそういう人はあまり心に響かないものが結構ある。

むしろ素人たる主婦の人のnoteの方がグッと来たりする。

この違いは何なんだろうか?


先日、Youtubeでお菓子の動画を見て、買うお菓子を選んでいる少年が「TVCMの芸能人は演技できちゃうから、本当においしいのかわからない。だから参考にしない。」と言っていた話を聞いた。

広告の世界がプロの演技で虚構を演出しているのがバレてしまい、プロの演技より素人の本音の方が信用されるようになりつつあるんだろう。


文章もその波が来ている気がする。

売れるための技術としての言葉と、心を動かすはだかの言葉は別物なのかもしれない。両方使える人もいれば、片方しか使えない人もいるという事だろう。もちろん、両方使えるプロもいる。


信頼の図式

本音を出せるプロ > 素人の本音 > プロの演技


人間が生まれる瞬間はもちろん裸一貫だ。

言葉だって同じで、最初は本心どころか単語すら言えない。「あー」とか「うー」などの喃語と呼ばれる稚拙な表現の確認から始まる。

幼児は表現の引き出しが少ない分、言いたいことをうまく言えなくて突然キレたりする。

文章を売って暮らす人々はそこからたくさん練習をして、たくさん失敗もして、外に見せる商品としての文章を作れるようになるんだろう。

そうしていつしか売れる言葉を綴ることに慣れすぎてしまい、心を動かすような素のはだかの言葉を出す筋肉が衰えちゃっているのかもしれない。


言葉は物質ではない概念だから、言葉が見えることはない。こうして見えている文字も、共通のルールを知っている同士だけしか通じない一種の暗号だ。

でも、その暗号にも何か気持ちが形になったかのような感覚を受ける時がある。

あなたは言葉に温度を感じたことはないだろうか?

あったかい、つめたい、ぬるい、寒い、熱い・・・ヒリヒリするような焦燥感には火傷にも似た熱さを、ゾッとするような恐ろしさには氷にも似たゾクッとする冷たさを感じる。

温度感だけじゃない。売上や数字でみずからの欲望を丸出しにして煽る姿には、まるでその人のグロテスクな欲望を露出されたような気持ちになる。

言うなれば、欲望の露出狂だ。


こうした売上マウンティングなどは、一種の煽り文句であることが多い。要するに自分はこれだけ売れているのだから、あなたも私をフォローしてありがたく言うことを聞けば売れるかもよ?というヤツだ。

実際は養分として財布の中身を吸い取られるだけのことが多く、本当に為になることはあまり書かれていない。いかに気分良く射幸心を煽ってお金を巻き上げるかのゲームな訳で、パチンコなどのギャンブルの仕組みと似ている。

別にこれらもビジネスだろうし否定はしない。

ただ、自分はもうそういうグロテスクな欲望をモザイクなしで見せられるのはちょっとしんどい。

逆に、こうしたビジネス演技ではなく、建前抜きの本音や本心に触れるとハッとする。そこに嘘がないことに安心もする。

聞きかじった知識じゃなくて実際に試してきたものを失敗談も含めて聞かせて欲しい。


数値には出てこない心の動きや揺らぎがきっとあるはず。

たった1人にでも言葉が届いて心を揺らせたなら、それだけで1万ビューより良い結果なんじゃないかと自分は思う。



# by kotanimasafumi | 2019-06-22 10:48 | つぶやき | Comments(0)
美しい涙について

e0149941_05143112.png


大江健三郎、新しい人よ眼ざめよ


を読んでいて考えた事を少し…
文中にブレイクという名の詩人が出てくる。

恥ずかしながらブレイクという名を初めは固有名詞として受け取らなかったが、『無垢の歌』の「失われた少年」の引用句に心惹かれた。

《夜は暗く 父親はそこに居なかった 子供は露に濡れて ぬかるみは深く 子供は激しく泣いた そして露は流れた》。

原文にはこう書かれている…
  

  The night was dark, no father was there,
  The child was wet with dew;
  The mire was deep, and the child did weep,
  And away the vapour flew


英語の語の定義では、涙を流す、と、(水など)が流れるを区別している。
日本語では受け身の流れる、能動態の流すである。
ここから英語と日本語の差が伺える。
英語にとって物理現象はflowであり、人為的行為はweepとなる。
日本語に両者の間に区別はない。


ここに美しい日本語が現れている気がする。

ふと思い出すのは、有名な言葉に、
美しい花がある(実在する)。花の美しさというものはない(実在しない)。
と実在論を平易な言葉で考察した批評家がいることだ。

日本人の涙はいつから枯れてしまったのだろう。
そもそも日本人ではなくなってしまったのだろうか。
自分の中のDNAはいつ眼ざめるのたろう。
DNAは日本という土地柄が作り出すような気がしているけど…
夢を見て朝に流す涙はいつだって素直で綺麗だったかもしれない。


美しい女性について

建築分野の中でガラスはよく考察対象となる。
自分自身の、要するに、男性から観た女性の内面の持論だけど、
女性にとってガラスというものは、メタファーとして、
とても重要な役割を持っているように思う。
ショーウィンドウ越しにキラキラした憧れの世界を夢見るgirl.
女性が憧れの世界をイメージすると、女性と憧れの世界の間にはいつだってガラスが存在するかのように感じられる。

見えるが手の届かない世界、自分とその世界にいる人たちとの区別や差を感じているように感じた。

その区別は、社会人になってお姉さんと呼ばれる年齢になっても別のカタチで続いていると私は感じる。

ショーウィンドウ越しの世界の代わりに隣の人の世界にガラスを貼る。
近くの人や遠くの人、それぞれガラスを貼っている。良いか悪いかはよく分からない。

でも、素敵なladyはいつでもガラスの彼方と此方を比べて、此方を良くしようとしているように、少ない個人的経験から考察できる。


自分はそんな素敵なladyには誠実でありたいなぁと思う。
自分の世界を大切に想う気持ちは、何か生命力のような、言葉にするとチープだけど、
素敵な何かがあるような気になってくる。
その世界を、自分で守る、のではなく、その世界に出入りする人で築き上げる事が、
とてもより良い結果になるなぁと主観的観測が答えをだしている。

こんな感じに自分なりに答えを出している女性と出逢うと
関係はなんでもなくとも、お互いに愛し愛される応え合いが出来て
とても愉しい。


愉快だ。


自分らは、きっと、これからは結果として生き残る必要が出て来る年齢に差し掛かっているんだなぁ。

全ての人が幸せになれる道はない。

きっと女性の幸せは日常の中に見つけられるけど、それは、ガラスのショーウィンドウの手前にあって、向こうの世界の実現を望まなくなるような気もする。
なれる幸せと見つけられる幸せの区別。


こんな事を読んだ本と出逢った人から気付かされた。



# by kotanimasafumi | 2019-05-28 05:18 | つぶやき | Comments(0)
街の顔
大正から昭和、平成そして、令和へ。
脈々と受け継がれる当時の技術と国家象徴の洋式建築。

全国の新幹線、主要幹線網における最大の起点拠点となる駅w

東京を代表する顔…
街にはやっぱり顔がいる…w


e0149941_05055608.jpg
e0149941_05061971.jpg
e0149941_05060156.jpg
e0149941_05061682.jpg
e0149941_05060698.jpg
e0149941_05061033.jpg


# by kotanimasafumi | 2019-05-05 05:09 | たび | Comments(0)
令和
e0149941_12020750.jpg

新元号『令和』が発表された。

自分の中では、まだ平成が終わる実感はないが、令和という新しい時代に対する期待は高まっている。


「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す」

菅氏によると、新元号の出典は、日本最古の歌集「万葉集」の「梅花(うめのはな)の歌三十二首」。日本の古典に由来する元号は初めて。

「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味を込めて。



自分が前向きな気持ちになったのは、令和という新元号が提案として素晴らしかったからだ。

自分的には100点満点に近い。こんな大仕事をやりのけた関係者の方々を本当にリスペクトする。


おそらく自分が新元号を企画して提案する機会は無いだろうが、普段の仕事の中で何かを企画し提案することは誰しもあると思うので、なぜあの新元号発表が素晴らしかったか。

それは…


1. 提案する側とされる側に緊張関係がある。

生中継をつける前までは「新元号かぁ」くらいの感覚だったのに、11時半になると、見ていたほとんどの人がなんだかソワソワし、緊張していたように思う。

(あの菅官房長官もロボットのように硬くなっていた…)

数十年使うことになる時代の代名詞だから仕方ない。

ただ、ここで大事なのはプレゼンテーションには緊張関係が必要ということ

ナアナアでやるプレゼンからは良いものは生まれない。

お互いに、これに懸けているんだという気持ちがあって、切磋琢磨が起き、良い企画に仕上がっていく。

忘れがちだが、提案前の期待づくりこそ第1の勝負ポイントだと思う。



2.相手の予想を裏切り、斜め上を提案する。

令和と発表されたとき、多分多くの人が「え…」となったと思う。

声の発表だけでは聞き取れないくらいには予想外だったし、掲げられた後にも一瞬シーンとした。

メディアでの事前予想を見ていたからか、多くの人は「なんで安じゃないの…」とか戸惑っていた。

しかし、次の瞬間じわじわと「実はいいんじゃない?!」と感じるようになり、どんどん令和いいね!の声が増えていった。

気がつけば、自分の周りはみんな前向きになっていた。

この斜めの企画こそが提案の本質だと思う。自分自身それは常に意識している。

相手の考えてる範疇のことのほうが下手に引っかかりは生まれないので提案としては通りやすい。

しかしそれでは提案する側の存在価値はほぼないし、何より感動は生まれない。

正論でたどり着く一次アイデアを捨てて、「は?」と一瞬思われることを恐れずにジャンプする。

それを堂々と提案し、「おーこの手があったかぁ!」と膝を打たせる。これがいい提案だと思う。

新元号がメディアトレンドを読みながら(つまり相手の思考範囲を先回りしながら)サプライズと納得のギリギリ地点を狙ったのはその好例だ。



3. 提案が遊ばれ、二次創作を生み出す。

いま世の中には、次々と令和グッズが誕生し、言葉遊びが生まれ、菅官房長官のコラージュ写真が出回っている。

これはもう国民全員の関心ごとだから、そうなってしまうわけだが、いい企画提案というのは二次創作を生むものだと思う。

ネーミングに関しての提案が、プロダクトのデザインに派生したり、新しい店舗の作り方につながったり、外とのコラボレーションを生んだり。

そういう発想を連鎖し、その輪を広げていくのが良いプレゼン。自分がソーシャルイシュー起点でVISIONを描くのも同じ理由だけど、受け手がそういう二次創作に参加することで同じチームになれる。

そこまで計算して提案すると結果は大きく変わってくるはずだ。


これが令和の新元号発表をアナロジーにして、すばらしい企画提案の3条件。


ただ「そもそも元号なんて必要なの?グローバルスタンダードの西暦でええやん!」と思っている人もいると思う。

自分もそう…だった。


今年が平成何年か覚えられなかった自分も、半分その気持ちはあったが今は違う。

やっぱりこういう見、非合理的な文化こそが、オリジナルな空気をつくり、国や時代に輪郭を与えていく。

何もしなくても資本主義と技術革新によって、あらゆる物事が合理的・画一的になっていく中で、こういう文化を残して楽しめるかどうかは、大事だし、ある意味で自分らの教養が試されているんだと思っている。



新しい元号は、4月30日の天皇陛下が退位に伴い、新天皇が即位する5月1日午前0時に施行される。

1989年1月8日に始まった平成は、2019年4月30日をもって、30年113日の歴史に幕を閉じることになる。



# by kotanimasafumi | 2019-04-06 12:07 | つぶやき | Comments(0)
歩行禅

夜に散歩へ出かける話。


取り組んでいることが行き詰まったり、考えが煮詰まったりした際、「なんとなく出歩く」ことで、脳は散らかった頭の中を整理するらしい。日本では古くから「歩行禅」と呼ばれているのだそう。


自分の住む地域は広島市内から車で20分程度の郊外団地だけど、田んぼもあったり、緑地や公園がいくつもある。

山々に囲まれ、市街地の雑踏から離れたい時の憩いの場探しには事欠かない。

「自然の中」というには人工物が目につきすぎるが、静かな場所を求めるには十分だ。

物思いにふける時や、頭をからっぽにしたい時など、「ここではないどこか」に行きたい気分になると、ささやかな自由を求めて散歩に出かける。

ただし、昼間に出かけることは滅多になく、白み始める前の早朝だ。
そんなどこかナイーブな趣味を、かれこれ2年は続けている。

日課というほどコンスタントではなく、あくまで「なんとなく」出かける。

リフレッシュにおいて、ささやかな自由をいかに自然体をもって得られるかが私にとっては大切なのである。

早朝でも、犬の散歩している人もいればウォーキングを嗜む人もいるし、思い思いのスタイルで歩く。


とはいえ、その散歩はお気楽な動機からくるものではなく、大抵の場合が自分がいっぱいいっぱいの時だ。

若輩ながらあれこれと複合的な思案が絶えない境遇にあるせいか、特定の場所に居心地を求められない心境を常に抱えている。

なので、そんな風にどこへともなく赴くままに出歩くことが、気分を落ち着かせる方法になっている。

誰に話して良いものかわからないこと、そもそも話すべきか、話さないでいるべきかもわからないこと、言葉にした途端に蒸発してしまいそうな微妙なニュアンスを帯びたこと。
「なんでも話せる間柄」なる人物がいたとしても、ついぞ口にすることはないそれらを連れて、益体のない時間をただ過ごす。

それらに気を向けるうえで日中は外的刺激が多過ぎるため、身体からごく狭い範囲に注意が向くようになる朝、その時間が呼んでくる暁の中、外に出る。

もうそろそろいい加減にと思いながら、意識の真ん中で未だに居座る事柄を思案する毎日。

本当、こんな繰り返しがいつまで続くんだろうと途方に暮れては、同じくこんな事をいつまで続けるんだろうと思いながら朝を歩く。

きっとそれが今の自分を自分たらしめている事柄とイコールの関係でもあるから、その状況から脱せない限りは常に考えざるを得ないという事もわかっている。

ぐちゃぐちゃで、噛み合う事も、交わることもない要素で満ちた事柄を持て余しているという事は、自分自身を持て余しているという事と同義である。

今でこそそんな状況なのに、この先このような事柄がもっと増えていくのかと思うと辟易してしまう。増えるばかりか、今抱えている事はこの先一生をかけて肥大化していくことが明らかなのだ。

普段は考え方次第とも気の持ち様とも、自己暗示の方向を強引に変えて余所行きの日常を過ごしているが、いざ個人の時間を過ごすと、嫌になる程それらが降りかかってくる。もっとも自由に使えるはずの無用の時間が、自分にとってはもっとも苦痛なのだ。

だから自分は、自分の時間を、自分を塗り潰すようにまだ薄暗い道を歩く。うっすらと見える道に、まるで自分が消え入るかのような感覚を求めて。

誰もおらず、誰の目にも触れず、誰を気にかけずとも良い空間に、自分という意識が溶けていくその感覚が唯一の安らぎだ。それが、自分が存在すること自体に覚える堪え難い苦痛を和らげられる唯一の方法なのだ。


自分であることを自覚した上で安らいだことなど何一つない。喜怒哀楽でさえそうだ。自分が消え入るかのような感覚を抱く時、ただ無に近づく時にしか自分の安らぎはない。ささやかな自由とはそのことだ。

ああ。歩きに行こうかな。


# by kotanimasafumi | 2019-03-07 05:15 | つぶやき | Comments(0)